「審判が教えてくれたこと、でも、すべての根底は宇高に」令和8年同窓会総会報告記
令和8年6月20日 ニューイタヤで我々昭和63年卒の主催で同窓会総会・懇親会が行われました。総会では村松 康成君の指揮で校歌斉唱・黙祷の後、増田 同窓会長からのお話し、また長 校長からは英語ディベート大会への遠征費用補助に160万円の寄付が集まったことが報告されました。また、東京支部からは平山大雅さん東アジアハーフマラソン金メダル祝賀会の宣伝を黒﨑 弘正副支部長が行いました。
懇親会では長野 辰男君の昭和63年卒代表挨拶のあと、私の講演が行われました。今回、宇都宮高校同窓会東京支部に講演内容を発表させていただく機会をいただき、大変光栄に思います。
「審判が教えてくれたこと、でも、すべての根底は宇高に」
私は、中学時代より、バドミントンが大好きで、競技に打ち込みました。当時宇高には、バドミントン部がなかったため、1つ上の先輩方と愛好会を結成し、外で風と戦いながらバドミントンをしていました。大学でも体育会で競技を続け、高校教員として勤務したときは、指導者としてがんばろうと思っていましたが、ふとしたことから、世界バドミントン連盟(BWF)公認国際審判員として、オリンピックを目指すようになりました。
競技者から指導者、そして審判へ、さらにそこからロンドンオリンピック・東京オリンピックという世界最高峰のは舞台へとつながった経験についてお話ししたいと思います。
私がバドミントンを始めた頃、まさか自分がオリンピックの舞台に立つことになるとは夢にも思っていませんでした。ただ選手として勝ちたい。もっと強くなりたい。そんな思いでシャトルを追いかけていた一人の競技者でした。
しかし、教員となり、指導を続ける中で、高体連や協会の仕事もするようになり、スポーツは選手だけで成り立っているわけではないことに気付きました。
指導者はもちろん、審判員や運営スタッフ、そして、多くの人の支えによって試合や大会が成立していることを意識するようになりました。
そんなとき1996年に日本バドミントン協会が国際審判員の育成を計画しました。当時、日本に4名の国際審判員しかいない状態で、国内で世界大会を開催する度に海外から多くの審判員を呼ぶ必要がありました。
また、当時、教員1年目の私の指導教官にあたる十河正博先輩(昭和43年卒)が、サッカーの国際審判員として活躍されており、そのことに感化されたこともあり、私も国際審判員を目指そうと決意しました。そして自分の国際審判員への挑戦を後押ししていただきました。
バドミントンの国際審判員資格には簡単に言うと4つのランクが有り、最初の4級3級はアジアバドミントン連盟の、そしてB級A級は世界バドミントン連盟による、筆記と実技の試験があります。すべて英語で行われ筆記、実技それぞれともに80点以上が合格の条件です。
最初の1996年の試験は、日本バドミントン協会の育成計画一環でもあり、日本で行われましたが、残念ながら実技が不合格でした。1998年にマレーシアで行われた試験に合格し、国際審判としての挑戦が始まりました。2000年に韓国で行われた試験に合格し、アジアバドミントン連盟所属として最上位資格の審判になりました。が、同時の私はここまでで満足という思いも正直ありました。
転機はアテネオリンピックです。オリンピックに、バドミントン競技として国際ラインジャッジ制度が初めて導入され、オリンピックのラインジャッジとしてアジアバドミントン連盟派遣として選出され、初めてオリンピックに参加しました。そこでみた光景は本当に素晴らしく感動しました。
ところが、オリンピックの舞台で、主審をしている国際審判員を見たとき、やはり審判を続けるなら、自分もオリンピックの主審をやりたいという強く思った瞬間でした。
そこから本当にがんばりました。バドミントンの審判は、すべて指名制です。大会に呼ばれるのも、試験に呼ばれるのも、指名を受けなければなりません。その指名を得るためには、いい評価が必要です。バドミントンの国際大会は世界各国から約20名の審判員が招聘され、火曜日の1回戦から日曜日の決勝戦へと進む中で、日々担当できる試合が決まってきます。アセッサーという審判員を評価する役員がいて、毎日審判員としてアセッサーから評価され、最終的に決勝主審ができるのは5種目5名に絞られます。その大会ごとの評価の繰り返しの結果、次の大会の指名を勝ち取っていくわけですが、ある意味、その次の指名を断ったら次のチャンスが得られないかもしれませんでした。そのため、職場にも生徒にも本当に迷惑をかけました。許可をしてくださった校長先生をはじめ、同僚の先生方、学年の先生方、そして生徒や部員に、本当に助けていただきました。行かせていただき本当にありがとうございました。
2007年にマレーシアでの世界選手権で行われた世界連盟へのB級昇進試験に合格、2009年にはインドで行われた世界選手権でA級の試験に合格、2010年広州アジア大会を経て、2012年ロンドンオリンピックにアジア8名選出枠にはいり、遂にオリンピック主審を実現できました。1996年の国際審判としてのスタートから16年の歳月がたっていました。
ここで少しオリンピックの話をしたいと思います。2011年、オリンピック開催の1年前に世界バドミントン連盟からオリンピック主審のノミネートのメールが来たとき、本当にうれしかったです。そこから1年かけてしっかり準備・調整してきなさいということです。選手がオリンピックにかけるように、審判員も準備しているのです。世界各国から選出された24名の国際審判員。日本から主審として参加したのは私一人でした。
ロンドンへは、シンガポール経由で約20時間。世界バドミントン連盟からの旅費では直行便は使えません。ロンドンに到着したその日の夜から、すぐに大会のリハーサルが始まりました。午後には、ユニフォームセンターで五輪公式ウェア一式を受けとりました。取った瞬間、「本当にオリンピックに来たんだな」と実感し、身が引き締まる思いでした。翌日は開会式。観客席はメインスタンド正面です。審判員へのリスペクトを感じる瞬間です。アテネでも同様でした。日本ではなかなか経験できないことだと思います。
大会期間中は、主審8試合、サービスジャッジ8試合、合計16試合を担当しました。今でも忘れられないのは、五輪で初めて主審として審判台に座った瞬間です。あのときの感覚は今でも鮮明に覚えています。男子シングルス予選リーグでしたが、正直なところ「さあオリンピックの審判を始めるぞ。」とかなり緊張しました。通常の国際大会とは違い、すべてのコートにテレビカメラが設置され、試合開始前のトスの様子から世界中に映し出されます。「自分の一挙手一投足が世界に見られている。」そう思うと、興奮しました。そんな時、海外のベテラン審判から「いつも通りやればいい」「笑顔でいこう」と声をかけてもらいました。世界のトップレベルの審判員ほど、実はとても穏やかで、人を安心させる力を持っています。
バドミントンの審判の仕事はルールを知っているだけでは務まりません。主審は、試合全体をコントロールする役割があります。選手が抗議してきた時も、感情的になってはいけません。私は言い合いにならないように、できるだけ簡潔に伝えるよう心掛けています。ところが海外のベテラン審判の中には、オリンピックであっても、笑顔やユーモアで選手の気持ちを和らげたり、選手の抗議をウインクでかわしたりと、「なるほど、ここで、できるようにならないと」と大変勉強になりました。
また、ロンドンオリンピックで感じたのは、スポーツの持つ国際性です。国籍も文化も宗教も違う人たちが、こうして同じ競技を愛し、同じ価値観で協力している。すごいことだと思いました。
競技会場となったウエンブレーは、とても落ち着いた住宅街でした。日本の夏とは違い、爽やかな気候で過ごしやすかったことを覚えています。一方で、食事は少々大変でした。会場では朝昼晩、ほぼ毎日サンドウィッチ。具材は違うのですが、さすがに続くと飽きてしまいます。周辺の飲食店もフィッシュ&チップスやインド料理が中心で、日本食はありませんでした。ただし報道関係は食事事情は充実していて、日本の記者さんに食事事情を話したところ、何度か、いろいろなものを差し入れしていただきました。よい思い出です。
審判仲間と地下鉄に乗ってビッグ・ベンを見に行きました。オリンピック関係者用のIDカードで公共交通機関・公共施設が無料だったことも驚きでした。
そして何より印象に残ったのは、世界中から集まった観客の熱気です。隣接するサッカーのウエンブレースタジアムでは、駅から会場まで人の波が途切れず、その光景に圧倒されました。世界最大のスポーツイベントの規模を肌で感じた瞬間でした。

しかし、ロンドンオリンピックは楽しい思い出だけではありません。皆さんも報道でご存じかもしれませんが、私は女子ダブルスの無気力試合の主審を務めました。世界バドミントン連盟は、バドミントンにおいて無気力試合が起こることを想定していなかったため、それに対応するルールが当時はありませんでした。中身のない試合を試合が観客からの罵声の中進行するしかありませんでした。韓国側が負けることをあきらめ、勝利し試合は成立しました。その後最終的には、オリンピック憲章違反で選手村追放で決着しました。
世界中から注目を集める中で、試合をどのようにコントロールするべきだったのか。もっと早く注意すべきだったのではないか。レフェリーをもっとはやく呼ぶべきだったのではないか。帰国後も何度も考えました。選手に対して怒るというより、オリンピックであのような試合を選択した選手に悲しみを感じました。私としても、オリンピックに参加できた満足感はありましたが、審判員としての達成感はなく、大きな課題を残しました。
その経験こそが私を成長させてくれました。スポーツには正解のない判断が必要なことがあります。だからこそ、感性や判断力を磨き続けなければならない。経験を重ねても学び続け、対応力をつける必要性を実感し、もう一度オリンピックにチャレンジしようと決意しました。
2014年インチョンのアジア大会・パラアジア大会や2017年スコットランドでの世界選手権、2018年ジャカルタのパラアジア大会等々、順調にキャリアを重ね、9年後、東京でのオリンピックと、パラバドミントンとしては初めて正式種目となったパラリンピックの両大会に審判員として再度、参加する機会をいただきました。
しかし、このオリンピックは、これまで経験したどの大会とも異なりました。世界中が新型コロナウイルス感染症の影響を受ける中での開催だったからです。
毎日の健康チェックや行動制限、定期的な検査など、選手も役員も厳しい感染対策の中で大会に臨みました。ロンドンでは世界中の仲間と食事をしたり、観光をしたりする時間もありましたが、東京ではそうした交流もほとんどありませんでした。また、オリンピックの象徴ともいえる観客の歓声もありません。無観客の会場は静かで、シャトルを打つ音や選手の息づかいがこれまで以上によく聞こえました。最初は違和感もありましたが、その中でも最高のパフォーマンスを発揮しようとする選手たちの姿に大きな感動を覚えました。私も、ロンドンでの経験があったからこそ、落ち着いてコートに立つことができたと思っています。ロンドンでは「自身初の五輪主審」として緊張しながら審判台に上がりました。しかし、東京では、選手のために、最高のプレーをできる環境をつくることに集中することができました。成長したことを実感した瞬間であったかもしれません。

そして東京パラリンピックでは、さらに大きな学びがありました。障がいのある選手たちが、限られた条件の中で創意工夫を重ね、自らの可能性に挑戦し続ける姿に深く心を打たれました。私にとっては単なるスポーツイベントではありませんでした。人間の可能性や努力の尊さを実感する学びの場でした。最初のインチョンパラでみた器具が東京パラまでの期間での、器具の進歩・進化には驚きがあり、パラリンピックになったからこその進化ではあり、オリンピックの持つ可能性と重要性をさらに感じることができました。
また、私は東京オリンピックでは、さらに大変光栄なことに、聖火ランナーを務める機会もいただきました。オリンピックの聖火には、「平和」「友愛」「希望」という願いが込められていますが、聖火ランナーとしてトーチを手にした瞬間、その重さ以上に責任の重さを感じました。沿道からの声援や、これまで関わった多くの生徒や仲間からの応援を受けるなかで、歴史を受け継ぎ、次の世代へつないでいく役割や思いを担っていることを実感しました。
私は、競技者から指導者、そして、国際審判員として世界の舞台に立ちましたが、聖火ランナーとして走った時間は、それらとはまたまったく違う特別な経験でした。沿道からの応援や笑顔に触れながら、スポーツが持つ力、人と人をつなぐ力を改めて感じることができました。聖火ランナーとしてオリンピックに関わることができた経験は、また違った観点からスポーツを考えることができた大きな財産となっています。

国際審判員としては、バドミントンは55歳で審判定年ですので、もう審判をすることはありませんが、現在は、日本で唯一の国際レフェリーとして活動しています。バドミントンのレフェリーとは、大会全体の責任者であり、審判員や競技運営全体を統括する立場です。この資格も試験があり、2016年にベトナムで筆記試験、2019年にモルディブで実技試験を受験し、合格することができました。審判員からレフェリーへ、立場は変わりましたが、バドミントンを通して、今後も、なんらかの貢献ができたらいいと思っています。
バドミントンをまだまだ楽しみたいと思っています。今年57歳になりました。しかし、今も、新しい課題に向き合いながら、挑戦しつづけています。年齢は挑戦を止める理由にはならないし、学び続ける限り、成長できると信じています。
今、振り返ると、これらの挑戦ができている、すべての根底にあるものがあります。それは、この母校で学んだ精神です。私は宇都宮高校で、「できない理由を探すのではなく、どうしたらできるかを考える」ことを学びました。やったことがないから無理。前例がないから無理。自分には力がないから無理。そう考えるのではなく、「まずやってみよう」「方法を考えてみよう」「失敗しても、その経験を次に生かそう」そんな姿勢を、先生方や仲間たちとの学校生活の中で自然と身につけることができたように思います。


最初の国際審判員資格試験に不合格のときも、2004年にオリンピックを目指そうと思ったときも、ロンドンで無気力試合を経験したときも、コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピック経験も、聖火ランナーとして走った時も、そして、国際レフェリーとして活動している今も、一つ一つの挑戦の積み重ねが、自分を次の世界へ連れて行ってくれました。そして、私の背中を押してくれたのは、母校で培った精神です。だから私は心から思います。宇都宮高校が母校で良かった。この学校で学び、この学校で仲間と出会い、この学校で挑戦する心を育ててもらったことが、今の私の原点です。
人生には思いがけない扉があります。その扉は、挑戦した人にしか開きません。そして、これからも新しい扉が現れると思います。挑戦は続いていきます。母校での学びを胸に、もっともっと挑戦したいと思います。
遠井努(昭和63年卒 小山西高校校長)