会員投稿

会員投稿③ 師を思う(前編)

群馬大学医学部放射線医学講座(現・腫瘍放射線医学講座)元教授で、私の師でもある新部英男先輩(昭和28年卒)の訃報を接したのは令和2年1月23日である。新部先輩は、癌に対する放射線治療というものが注目されなかった時代に、その有用性にいち早く着目して、腫瘍学に基づく放射線治療の発展に寄与しただけでなく、多くの教え子を輩出された。実際に我が国の放射線治療専門医の一割は同講座の関係者と言われている。引退後であるが、重粒子線治療装置が群馬大学に導入されたのも新部先輩が人材を育成していたからと言われている。実際に、現在、都道府県がん診療連携拠点病院の放射線治療の責任者が、弟子である都道府県は栃木県を含め7県にも及ぶ。

約1600人しかいない放射線治療専門医1)のなかで、須藤久男 元・松戸市立総合医療センター放射線科部長や山川通隆 元・東京都健康長寿医療センター放射線治療科部長(共に昭和48年卒)、宇高2年生のフィールドワークにも協力していただいている加藤弘之 神奈川県立がんセンター重粒子線治療部長(平成7年卒)、入江大介 群馬大学腫瘍放射線科助教(平成15年卒)と滝の原出身者はもっとも多い高校ではないかと思っている。多数いるなかでもっとも私は不肖な弟子であるが、この文をもって今までの御礼を申し上げる次第である。

神奈川県立がんセンターiRockを訪問した宇高生
令和元年 加藤弘之部長がいる神奈川県立がんセンターの重粒子線治療装置を見学する宇高生

ご尊父様の伝吉様(明治41年卒)も滝の原卒業であり、新部先輩の在学中の昭和27年にはPTA会長を努められている2)

新部先輩は滝の原卒業後、いったん東北大学理学部に進学され、その後群馬大学医学部に進学されている。大学時代は、後述する野球に打ち込むとともに病理学教室に出入りされていた。また、学園祭の実行委員長を務められるなど活躍された。

昭和35年に大学を卒業され、国立栃木病院(現・NHO栃木医療センター)にてインターンをされている。新部先輩にとっては滝の原卒業後、唯一の親元で過ごした1年で、臨床一般の知識はここで学んだと回想されている3)。その当時の国立栃木病院は旧第12師団(宇都宮・水戸・高崎の司令部)の陸軍病院、県立栃木病院、宇都宮市立病院を統合したもので千数百床をもつ日本有数な大きさであった。滝の原の先輩が多数いて、面白い症例は科を問わず診たそうだ。インターン時代に学んだこととして、「振り分け外来の必要性」「癌は治すだけではだめである」「ソーシャルケースワーカーの必要性」と回顧しているが、全身の骨転移の患者さんで、麻薬を拒否されているため除痛もできず、医師との関係が最悪な患者さんが入院していたそうだ。たまたま滝の原の恩師であり、担当となり、その恩師も大変喜ばれた。ところが、麻薬であることを伏せて新薬を使いましょうと言ったところ、いつ開発されたのかと詰め寄られ、返答に窮したそうだ。しかし、その恩師はわかったふりをして治療に応じてくれ、このことから「医師と患者の関係は信頼につきる」ということを体験された。

インターン終了後、群馬大学病理学教室の大学院に進まれた。放射線治療を見据えて病理学を志したのではなく、大好きな野球や師に恵まれた場所が病理学教室であったそうだ4)。昭和40年に「実験的膠腫の移植に関する病理学的研究」にて大学院を修了され、放射線医学教室に入局された。放射線治療によるがん治療に没頭するとともに、放射線病理研究室を立ち上げ、組織構築と放射線感受性、腫瘍母地効果、腫瘍免疫などの研究に力を入れられた。昭和47年には、照射後の間期死を指標にすれば、腫瘍細胞の本質的な放射線感受性の差異がわかることを発表された。この理論は、当時の国内外の学術会議では認めてもらえず、大変悔しい思いをされたそうだ。今では、間期死の形態学的特徴はアポトーシスとしてよく知られている。発表時期もアポトーシスを提唱したKerr氏と同じ年のことであった。 

以下後編に続く)東京支部副支部長 黒﨑弘正(平成元年卒)