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「平成5年卒 10年会を終えて:極上の仲間たちと自身の原点の再発見」(前編)

令和5年3月20日の夕方、科研費出張で来ていたマンハイムの調査先からいつも通り、疲れ果てて宿に帰ってきた。窓の外の曇天と同じくらい暗く濁ったウゾをあおり、相変わらず不味いケバブ弁当の残りを無理やり胃に流し込み、明日も待っている面倒な調査のことばかり考えながら不機嫌な心持で明大メールを開くと、明治大経営学部事務室から一通のお知らせ:「栃木県立宇都宮高校の高久先生から同窓会の知らせあり、転送します」とのこと。

一瞬目を見張り、手前の年を指折り数えたら48歳。つまり、宇高卒業時に知らされた「10年会」なら3回目ということになる。考えたら、28歳の時にはベルリン自由大学で博論作成に没入、38歳の時には西南学院大学から東北大学に移動する忙しさでこのことを考える余地もなく、加えて生来のずぼらさがたたり、この間、宇高同窓会の事務局に連絡先変更を伝えるのさえ忘れていた。おまけに20歳の時には宇高時代の鹿又姓から、元の姓である石塚に戻していたので、同窓会担当の同期が、普通にググっても俺が平成5年卒の「鹿又史樹」だとわかるわけはない。なるほど、過去二回の「10年会」に出た記憶がないわけだ。

早速いそいそと、同期の高久先生のメール文面を拝読すると、「10年会」の案内。饒舌な高久先生の文面から、当時の宇都宮高校の雰囲気、人間関係、そして、手前が宇高で何をやっていたか、等々が少しづつ蘇ってきた。高久先生によれば、1年時の組担任でおられた渡辺先生、2年時の隅内先生、3年時の野口先生もお越しになるとのこと。少なくとも、散々ご迷惑をおかけした担任の先生方には心からのお詫びを申し上げ、多くの恩を受けた級友たちに久闊を叙さなければ、死んでも死にきれないとの思いに駆られ、早速提示されたグーグルフォームの回答機能を利用して、「10年会」と「平成5年卒懇親会」の両方に出席回答をさせていただいた。

5月20日の「10年会」当日、久々に降り立った、当時は存在さえしなかった餃子屋に囲まれたJR宇都宮駅から見上げた空は、露が漏れ流れてきそうな曇天。気合を入れて仕立ててきた紺色の一張羅に身を固め、十年近く使っている破れ傘を斜に構え、西口から一直線、どぶ板を踏みながら、会場の「ホテルニューイタヤ」に向かった。

外側の静けさからは、どのくらい来ているか不安になるくらいだったが、受付にはすでに、貫禄あふれる紳士たちがごった返しており、その熱気とエネルギーに圧倒された。受付で「石塚と申しやぁす」と申告したら、「うわー、鹿又君だ!」と後ろから声を掛けられた。振り向いたら、なんと1年1組で一緒の塩入先生。宇高の先生になったと聞いていたが、最近中央高校に移動されたとのこと。相変わらずダンディーで御脚も長いが、お髭は灰色も交じり、30年の年月の流れを感じた瞬間だった。

いつでも逃げられるようにと出口付近の「H5年卒」の旗が立った席に座ったが、ここもあっという間に埋まった。そっと上目遣いに同じ旗の立った席を見渡すと、皆、成長しすぎていて、最初は誰がだれだかさっぱり判明せず。過去の記憶を頼りに、頭の中で紳士たちの顔に色んなパーツをつけたり外したり、縦横に伸ばしたり縮めたり、シミュレーションなんだかモンタージュ写真合成なんだかわからない作業を繰り返していたら、次第に懐かしい面々のご尊顔が浮かび上がってきた。

そして、ついに老眼が始まっちまった目を瞬いて遠くの席を眺めたら、ああ、見まごうこともなく、1年時ご担任の渡辺先生、3年時ご担任の野口先生、その隣には現社の斉藤先生に国語の福田先生まで、恩師のそうそうたる面々がお元気そうに、そして昔は全く考えられなかった慈悲深い、100万ドルの素敵な微笑を浮かべて鎮座しておられる!その間をまるでホラー映画に出てくる巨大な熊蜂のように飛び回り、何かと世話を焼いておられるのは、なんと、2年8組の名誉市民だった佐久間社長であらせられる!しかも、同窓会常任理事+平5年卒代表として、10年上卒代表たる野党所属の某代議士が長大な演説をぶちかました後、「スカートとスピーチの長さは短ければ短いほど良いというのが私の信念なので、ここで締めくくらせていただきます」と、講演開始からものの数十秒で代表講演を片付けてしまうところなど、渋すぎる、この千両役者!と、感激の連続が続いた。

長大な演説をぶちかました某代議士
スカートとスピーチの長さは短ければ短いほど良い平成5年常務理事

次に、お世話になった一年時には、数Ⅰの定期試験で赤点すれすれの評価しか下さらなかった記憶しかない渡辺先生に恐る恐る、明大に作っていただいたピッカピカの名刺を持参して長き無沙汰のお詫びに伺ったら、なんと、にこやかに、「君は絶対に学者になると思っていた!頑張りなさい!」とのありがたいお言葉。あい!これからもお国のために粉骨砕身、研究教育に励みます。もし、同じようなことを他の同窓生におっしゃっていなければ!

1年時担任だった渡辺新太郎先生(在籍S50~H5)

で、野口先生。「先生の素晴らしいご指導のおかげで、軽犯罪者や痴漢としてお国のブラックブックに登録されることもなく、立派なプロレタリアートになることができました!」とご挨拶に伺ったら、「この大ウソつき、俺の授業ではいつも、これ見よがしに内職に励んでいやがったくせに!」とのご喝破。違ぇやすっての、放課後に先生の英作文添削をお願いしたくて、授業中に必死に作文してたんでがんすよ。それに二・三十回っきり、先生の授業で内職をしてた時でも、お話はきちんと片耳に入ぇってましたって。

3年時担任だった野口豊先生(在籍H1~8)

次に、初めての小僧のお遣いさながらに、もじもじと各テーブルに遠征。この時の仲間たちとの久々の邂逅をめぐる素晴らしい思い出を全部語っていると、多分、この原稿が博士論文並みの分量になるので、勝手ながら次のように要約し、心よりの感謝の意を表したい:敬称略で失礼ながら、旧1年1組の至上の仲間だった行木、大塚(や)、駒野、小網、添田(貴)、添田(喜)、内田、桜庭の各氏、一時的に所属した合唱部でお世話になった岩本(達)、齋藤(秀)の両氏、それ以外の個人的な交流で極めてお世話になった柴田(昌)、佐藤、星野、太田(貴)、吉村、手塚の諸兄には、30年の無沙汰にもかかわらず、再会を心から喜んでいただいた恩義、死んでも忘れはいたしゃしません。また、サッカー部の北村氏、そして神田氏には、あたかも初対面のような野暮な挨拶をこの時してはしまった。だが、その後、記憶の箱からいろいろな思い出が奔流のように流れ出してみると、きちんと当時っからの知り合いだったことが判明。両氏、申し訳ねぇ。何しろ当時は髪型を個人識別の重要な情報源にしていたんだが、四半世紀以上の時間の激流の中でそのかなりの情報源が抜け落ちてたんで、あの時は即時に識別できなかったんだいね。

さて、ここまで書いたら、どこからか、うんとつんざく怒号が聞こえてきた。なんだって?「あんなにお前ぇの世話を見てやった俺たち2年8組の旦那衆に対する御礼の口上がねぇぞ!」てさ。何抜かしてやぁんだい。真打登場は此処っからだんべぇや。

さて、一方で、会場で最も熱心に目を皿にして探したのは、2年時の同胞諸君、つまり、隅内先生が率いた、旧文系2年8組のご級友様方だった。

まず、即座に見分けることができたのは、自らの企画が思うような成果を挙げられずに、苦虫を嚙み潰している度に、ご自身の失敗談を引き合いに出して、限りなく優しく次回への挑戦を促してくださった、釜井先生だった。こんな先生に面倒を焼いていただいている小学生は本当に幸せだんべぇなとつくづく思うような、非常に良い円熟ぶりでいらっしゃった。

次に、「よっ」と気軽に声をかけてきたのは、2年8組の学術文化部門でタッグを組み、多くの活動を成功に導いてきた大戦友、大橋先生であった。多分、当時から比べると進化と退化の著しい現在の手前の外見をそれと即座に見分けられたのは、同先生くらいのものだろう。これには理由があり、17、8年前、丁度良くお互いに連絡を取りあうことができ、当時の就職先であった福岡で旧交を温めることができたことによる。ちなみに、同窓会側の検索に引っかからない俺の存在を、理事の高久先生にお伝えくださったのは、大橋先生である。

そして、さらに奥地に分け入り進むと、おお、ネット検索において2年8組中、最もヒット率の高いご尊顔、田巻社長に拝謁がかなった。今や、栃木の食を全国に発信する経営者・芸術家・職人であらせられる同社長、昔も今も相変わらず優しさと茶目っ気、センスのいい洒落者の雰囲気が漂っておられる。

これに続き、あまりにも強烈だったのは、30年前から全く年を取っていない、そしてますますフレッシュさと粋でいなせな有様(+イケメン)がほとばしる、芸術関係者としか思えない兄さんが、いたずらな悪ガキのように、「にかっ」と笑いかけてきたことだ。中山先生!自頭だけだったら2年8組ナンバーワンだった超絶天才はなんと、我ら明大に眉日秀でたる若人を多量に送り込む大変ありがたいゴッドハンドを備えた、敏腕の人気予備校講師に進化していた。

その横には、これも時代が止まったまま、あの春風駘蕩そのものを体現された、毎日、高く朗らかな声で我々を教室に陽気に迎えてくれた、鈴木(寛)次長部長が、30年の時を経て、またデジャビュな歓迎をしてくれた。この御仁ほど、人柄と役職が一致する事例も珍しい。大企業の人事責任者とは、やはり個人特性がものをいうのだなと納得させられた。

そして、深い海の色のような優しさをたたえた視線で我々の再開の様子を嬉しそうに見守る、額に軽くソバージュした前髪がかかる様子があまりにも素敵な、気品あふれる紳士が佇んでいた。確かに見覚えがあるが、誰だっけや。田巻社長が「羽石!」と呼びかけた瞬間、俺は、「何!?羽石団長!?」と変な声を挙げちまった。あの巨大な宇高団旗を誇り高く空高く掲揚し、暴風が吹いても試合が長引いても寸分の揺れも見せなかった宇高が誇る鬼神が、今は慈母のような優しさで我々を包み込んでいるなんて…。

そして、最後。長い会を通じて、特に特徴ある様子もないのだが、何かと俺の目を引く旦那がいた。これが、授業の合間、暇さえあれば机上に突っ伏してグーグー寝ていた、そして放課後の鐘がなるや大魔神のようにむっくりと隆起し、大音声で組内の野球部員連中をどやし付け、夕闇が迫るグラウンドに繰り出していった、そして宇高野球部をシード校として、高校野球の強豪校に導いた大英雄、田代課長だと認識できたのは、なんと3次会もたけなわを迎えた時であった。

身も心も解けるような至福の時を迎えていた3次会のさなか、突然、中山先生が俺の前で頭を下げ、「すまねぇ、許してくれ。いつもギャーギャーと騒いで、お前と大橋の勉強の邪魔をしちまって。だけどよ、お前ら二人は、俺たちの宝だったんだ。だから俺たちは俺たちなりにお前らを敬い大事にしてたんだ。何しろ、お前らは2年8組という宇高始まって以来のとんでもねぇ屑クラスにあって、掃きだめの鶴のような存在だったんだぜ!」と。

何を言ってやがんだ、中山先生。本当に楽しかったんだよ、それだけだぃな。だからここにいるんだんべぇや。それに、お前らだって俺の宝だったし、俺もお前らを俺なりのやり方で尊敬し大事にしてた。それに、二つ間違ってんぜ:まず、俺たちは「屑クラス」などでは決してなかった。それからもう一つ、俺たちは全員が鶴だったんだ。しかも鮮烈な極彩色の。皆各々、毛色は全く違ってたけどよ。

3次会に居合わせた2年8組の皆に上記の旨を説明したが、舌っ足らずでどうも説明しきれた気がしない。そのあと、新幹線で東京への帰路の間、宇高脱皮以後、幾度もなく繰り返された流転の旅にありしこの身を言い訳に脳の片隅に放置しておいた、「2年8組」とレッテルの張られた思い出の箱の中身が、少しづつ外に漏れ出しているのを知覚するようになった。これに従い、茫洋として明確でなかった当時の2年8組の日常風景が、次第に鮮明な映像として、とめどもなく蘇ってきた。そして、手前がなぜここにいるのか、そして、なぜこのように生きているのか、その原点が砂の中から洗い出されるように、眼前にはっきりとした姿を取って現れてくる心持がした。私小説続きで恐縮だが、以下にその映像から抽出した、当時の失われし物語、あるいは学級史の一節を再現させていただくことを、読者の皆様にはお許しいただきたい。  (以下中編に続く

石塚(鹿又)史樹 (平成5年卒)