「平成5年卒 10年会を終えて:極上の仲間たちと自身の原点の再発見」(中編)
宇高の1年生が入学直後、周りがあまりに優秀なので自信を失ってしまう、という話はよく聞く。本執筆者の場合、入学時の学業成績は多分最低レベルだったし、入学後しばらくの間も、順位の上では金目鯛並みのタナを居住地としていた。まあ仕方ねぇさ。入学前の能力も資源も不足していたし。ただ、石塚-鹿又―石塚という姓の変遷から賢明な読者の皆様はご明察の通り、ご幼少のみぎりから人生の「仕切り直し」には慣れていた。また、餓鬼の頃から、「模範解答の用意されている問題なんざ造作もねぇや」という、今も変わらぬ確信があった。なので、初めに配属された1年1組の上層部を構成した宇大附中出身のやんごとなき方々がどんな勉強法をしているのかを存じ上げることなく、手前独自の能力構築競争に乗り出すことになった:今でも心よりのリスペクトを捧げてやまない英語の千田先生からご推薦いただいた原先生の『英標』を徹底的に研究したり、文芸部の床に転がっていた『史記列伝』・『更級日記』・『平家物語』の対訳本を失敬して、便所の間に読んでいたら、英語が退屈になるほど習熟してしまったし(最も、美しい古英語ならよだれを垂らして興奮するぜ!)、平安中期以降の山城方言~鎌倉期あるいは中世期の坂東方言のほうが現代日本標準語での日常会話より流暢にできるようになっていた。数学も、数Ⅰは証明なくいろんなことが詰め込まれているうえにテクニックばかりが必要なので苦労したが(別に教えてくださった渡辺先生の責任ではありません。数Ⅰという分野が純粋に合わないだけです)、高校理系の微積分も含めた解析学だの線形代数は理詰めで分析すれば解決するのであっという間に習熟してしまった。ということで、一年の終わりには、大学受験に関する勉学に関しては、まだまだ先の学習範囲が膨大に残っていたとはいえ、事実上、例の小林秀雄訳のランボオの、「俺は見た。何を?永遠を。」という状態になっていた。
さて、それで、一年生最後のなんかの模試で、ようやっと変な独学の成果が出た。全科目合計で学年10位以内。もちろん、秀才ぞろいの1年1組の紳士たちは完全に無反応。無理もねぇ。研究の世界でもそうだが、ありえねえ奴がありえねぇ成果を出すと、人間、そろってスルーするもんさ。ただ、一つ言えることは、この時点で、入学時点では後発だった俺も、宇高の先進国としての指標を達成するに至っていたわけだ。
さて、それで、試行錯誤の連続だった選良クラスの1組を卒業して配属させられたのが、地獄の新宿二丁目、でなくて、2年8組だった。
さてここで、何回も登場してきた、宇高卒業生量産事業部A(日本史部門)の工場総長であらせられる高久先生に再びお出ましいただく。同先生に、手前が同組組員であったことを「十年会」で説明したら首を傾げられて、「変ですねぇ、宇高の校舎の構造上、2学年は7組までで、『8組』を収容する教室は存在しえないんですが…」とのご回答。だが、当時の2年8組の性格を解明するうえで、これは実に重要なサジェスチョンだった。
そうか、そういうことか。我々は何となく、「追いやられた感」を半端なく共有していた記憶があるが、高久先生の情報が正しければ、俺たちは物理的にも事実上、他の組とは多かれ少なかれ、隔絶された空間で歴史を刻んでいたことになる。当時の先生方の名誉のためにも断言するが、それは我々の1年時の学業成績が押しなべて悪かったという純然たる事実に基づいて、悪意をもって「勿来の関」の向こう側に追放された結果とは、解釈していない。平成5年卒は丁度、「団塊第二世代」のピーク年に属し、やたらと同学年人数が多かった。したがって、多分だが、当時の宇高は同期の入学者を相対的に多く受け入れざるを得ず、何らかの基準に基づく優先順位をつけて教室を割り当てた結果、全くの偶然で、我々が「域外」の貧乏くじを引く羽目になったと考えるのが、妥当だろう。ちなみに、わが組の籤運の悪さの象徴として、野球部の田代部長(現課長)があげられる。同部長(しつこいようだが、現課長)が、県大会第一回戦の相手の抽選に赴くと、必ず優勝候補とぶち当たるというジンクスがあった。
さて、このようなスタート地点の悪さもあってか、2年8組の教室で初対面した我々の自尊心は、全体的にいささか傷つけられていたことは、皆否定しないと思う。特に、隅内先生が意図的に俺の隣に席を並べたと推測される大橋先生は、1年時から学年レベルでの最上流階級に属していたこともあり、よりにもよってなんでこんな所に来ちまったんだという雰囲気を、わかりやすく漂わせていた。
人間、不本意にも「屑の集団」に分類されたと思い込んだ時に、どのような反応をするかに関しては、様々な類型があると思うが、あの時、のちに極上の仲間となる面々の多くが見せた反応のそれは、まさに黒澤映画の「どん底」に近いものだった:つまり、ノリの近い仲間と空騒ぎをして、その時その時の憂いを刹那的な陶酔感で乗り切り、手前を馬鹿にしていると思い込んだ相手には、強がって見せる。
ただ、このような反応が、「仮想敵」と思いこんだ相手との間で負の化学反応を繰り返した時には、全体として、双方に良い結末をもたらさないことは、言うまでもない。にもかかわらず、2年8組の初期状態は、こんな感じだった。
こんな中、俺は相変わらず独自路線を貫き、横からたまに大橋先生の用心深い観察の視線を感じながら、手前の計画を着々と実行に移していた。それで、第一回のなんかの試験の結果が張り出され、学年全体だったか文系全体だったかで、確か5位か6位に役職評価された覚えがある。思えばこの小さな出来事が、俺の2年8組へのコミットメントを劇的に変えることになったんだった。
この査定票の長々しい巻物を、1年時の最後の模試の結果がまぐれ当たりでも何でもなく、本格的に足腰が鍛えられてきたことの証拠だと確信した充実感を胸に、腕を組んで、後ろに倒れるほどのけぞって威張り腐って仰ぎ見ていたら、後ろから田巻社長が首に抱き着いてきて、「お前すげぇ、実は天才だったんだな。まじかよ、この屑クラスに一筋の光が差した気がすんぜ!」と絶叫すれば、わらわらと中山先生、「十年会」にて拝謁できなかった増渕先生、その他もろもろの2年8組の強面の組員たちが駆け寄ってきて、俺の手をかわるがわる熱く握りしめ、俺を抱きしめ、全く屈託なく、まるで手前のことのように「2年8組始まって以来の快挙」を喜んでくれた。
思えばこの日から、2年8組は俺にとっての故郷になった気がする。餓鬼の頃、東京と上州前橋を相次いで不本意に出させられて以来、俺は初めて、手前が気持ちよく過ごすことができる居場所を見つけた気がした。そして、不本意に吹き寄せられて出来上がったと思い込んでふくれていた烏合の衆は、一瞬にして、「極上の仲間」に変わっていた。
朝、出勤すると、前の席から振り向いて、いつものご丁寧な「身の下談義」から挨拶に入る田巻社長。日本史の定期試験で、せっかく俺が教えてやった「問丸」が出題されたのに、「豊丸」と書いちまってしょげていた増渕氏。組外だが、ほぼ毎日、素っ頓狂な声を上げて教室に転がり込んできて、本当かウソかもわからないトンデモなネタ話で組を笑いの渦に叩き込んだ後、疾風のように消えていく佐久間社長。俺が鼻緒の切れそうな歯の擦り切れた下駄で登校したら、本気で心配して、ご自身の中古靴をもってきてくださるとのご厚情あふれる有難いお申し出をいただいた中山先生(確かに貧乏だったことは認めるが、干していた靴が雨で全部濡れちまったんで、仕方なく履いてきたんすよ、先生!)。また、最初はこちらを様子見していた大橋先生も次第に接近してきて、受験界・大学における勉学に関する最新の情報を秘蔵の資料を使って教えてくれるようになった。加えて、他の組におわす宇高のやんごとなき重鎮の面々ともツーカーの関係にあった同先生からいただく、宇高紳士録の最新の更新情報は、後に文化事業上の戦略形成を行う上で、不可欠な情報となっていった。
また、組担任の隅内先生は、初回の試験の結果だけで俺を過剰評価し、級長に任命するわ、合唱コンクールの指揮者に据え付けるわで、俺は、2年8組において、いっぱしの重要人物になっていった。皆も、俺と大橋先生を神と祭り上げたため、俺は生まれて初めて天国にいる心地がした。
もっとも、俺の級長としての役割は、精々、塩入先生か百瀬先生、あるいは柴田次長あたりから受け取った生徒会政府の施政方針を、伝書鳩さながら、我らが隠し砦に持ち帰るのが関の山だった。だが、Anarchy in 宇高、あるいはIngobernables de 宇高ってノリの2年8組じゃ多分、生徒会の存在すら認識されていなかったと思う。なので、俺が教室の壁にぺたりんこと張っておいたお便りの数々も、間もなく、白ヤギさんがやってきて、どこかにもっていってしまったと推測する。
合唱コンクールの指揮者に関しても、これまで、楽譜を読む訓練を受ける余裕もなかった奴が、個人事業主的な精神が強すぎるため「和音」という側面における音楽センスが揃いもそろってほぼ欠如した仲間たちを、極上の協和音に導く試みは、ほぼ無駄の費えだった。だが、十年会ではお目にかかれなかったわが組の岩本君が二卵性双生児の妹君に頼み込み、音楽の荻野先生が選んでくださった担当曲「オレーグ大公の歌」の原譜をピアノの旋律に落とし込んでくれたおかげで何を歌えばよいかは理解できるようになったこと、そして、精神力とエネルギー両面のみでは他の組の追随を一切許さなかった組員たちの血のにじむような努力により、欠格指揮者の下でもコンクール最下位の屈辱だけは味わずに済んだ。
さて、このようにして、毎日エネルギーを献上してくれる極上の仲間たちと楽しく学業に励んでいたとある日、一時限目が自習だってぇんで、皆、夏の街中の街路樹に集まるヒヨドリのようにギャーギャー騒いでいた。そうしたら、空間的な隔絶にも関わらず、これを聞きつけた渡辺先生が、額に青筋を立てて我らがヒヨドリのお宿に飛び込んできた。
もちろん、俺たちも同先生の通常のお説教を涼しい顔で受け流すくらいの人間の大きさくらい、当時から備えてはいた。だが、当時最も脂がのりまくり、働き盛りのピークにあった渡辺先生のお怒りがそんなもので済むわけはなく、この乱行と因果づける形で、今まで宇高内で語られることさえタブーとされた、2年8組の学業パフォーマンスに関する重大な事実を、組の皆の前で暴露してしまった:分散分析を行った場合、2年8組は他のどの組と比べても、1%有意水準でも、統計的に有意な、格別にデカい、マイナス方向の平均値差を示すぐらいのことは、当時はとても手が届かなかった価格の統計ソフトを使わずとも誰の目にも明らかだったし、宇高の同期の平均成績を引き下げる要因を検出するためにあらゆる手法の重回帰分析を行った場合でも、「2年8組ダミー」にへばりついてる標準化係数が、p値を恐ろしく低い水準に設定しても、特別に有意に作用しているであろうことは、統計学をまだ習っていなかった俺でも容易に想像がついた。
だが、この時、その事実が、傷つきやすい天使たる我が極上の仲間たちに対し、オブラートに包まずにガチにフィードバックされたことで、皆の自信が急速にしぼんでいき、初期状態時に組全体に漂っていた無力感が、再び急速に広がるのを俺は感じていた。そして、確信したのは、このままでは極めてまずいということだった。この状態が続けば、2年8組が「宇高始まって以来の屑クラス」という根拠の一切ない誹謗中傷を、自ら追認することになっちまうからだ。
確かに、個別のエピソードを挙げれば、俺たちの行状は、全く褒めたものではなかった。そのことについては、なんの申し開きもするべきではねぇし、先生方に素直に許しを請うべきだと思う。我々が語り継いでいる個別のエピソードをここにいくつか開陳するならば、例えば、中山先生が突然、一週間ほど組を蒸発して姿を一切くらまし、先生方をパニックに陥れてしまうこともあったし、数学担当の安生先生が、独特の節回しで「この変数yを説明する変数xの3次関数をxについて一次微分すると、x部分の累乗は何乗になるぅ~?」との問いかけに、皆声をそろえて、某仏壇チェーン店の宣伝さながらに、「あんじょーぉぅ~」なんておバカな答えを返して、うら若き先生にご不快を与えてしまうこともあった。
ただ、帰ってきた直後の中山先生がいきなり、全国模試の世界史でトップに躍り出ちまって歴史的事実は、本人は本人なりの修行を経て先生方のご期待にお答えしたいとのひたむきな願いからあんな非常識な行動にでたんだってことを雄弁に物語っている。また、安生先生には本当に大変申し訳ないことをしたが、あれはあれで、不器用で洗練されてなかった我々の、ちょっと上の兄ちゃんのような若き先生に対する、精いっぱいの親しみの表現だったという言い訳にも耳を傾けていただければ、俺の方から組を代表して今すぐにでも頭を下げに伺いたいと思う。それに、我々は、独特の価値観と突拍子もない行動様式を備えた多くの主体から構成されていたサンプルであったため、当時の宇高の母集団から構成された標準正規分布の平均値からは、6シグマくらい離れた、あるいは0.0001%有意水準でも見事に棄却されてしまうような集団だったことは認める。にしても、俺自身は、わが愛しき抽出サンプルが、マイナス無限大のほうではなく、プラス無限大のほうの棄却域に入る集団だと確信していた。
ただ、当時の世相の下では、これまでの実績に裏付けられた先生方の不信感を払拭し、そして何らかの形で2年8組の地位向上を図らねば、我々は本当の屑として周囲に認識されることになるし、下手すれば、組自体が学年途中で解体されて、俺がやっとこさ手に入れた心地いい居場所がなくなってしまう恐れすら感じていた。また、何よりも、2年8組を屑として片づけることは、俺のことは別に構わねぇとしても、わが最愛の極上の仲間たちを貶めることと同値であったため、絶対に放置できなかった。
「どうにかしねぇと」と、製油工場の藻屑と化した菜っ葉の種の莢みてえに、こってりと絞られてへたっとなっちまった同胞たちを見渡しながら俺は低くつぶやいた。
この時、いろんな思いが胸をよぎった。が、突然、過ぎし年の文芸部の企画展で取り上げた、『史記列伝』の一文句が脳裏に鮮烈に浮かび上がった:ヨジョーだったかケーカだとかいう遠き昔のモロコシの丈夫が、「士爲知己者死、女爲説己者容」と宣言し、大恩を受けた御方の名誉回復を神に誓い、宿願を遂げべえとしたんでなかったかいね、と。男子校なんで、後半の「女~」以降の文面の成否に関する行動科学的な実証実験は大学入学後のお楽しみに取っておくとして、前半の文に要約されたダンデズムを全面的に採用するなら、要するに、「知己者」ってのは、人生で初めて俺を認めてくれた2年8組の極上の仲間たちであり、「士~死」ってのは、その恩義にこたえて、体を張って、我らが組の地位向上に貢献することではねぇべえか、と勝手に解釈した。この線に沿って行動すれば、俺に何ができるべぇか、って問題意識が、「自習事件」以降の俺の宇高生活路線を決めた。
あれこれ考えなくとも、地位向上を実現するために俺が採用できる具体的な手段は、手前のあまりにも限られた能力、および神から与えられた当時の資力のもとでは、2つしかなかった:ひとつは、少なくとも文系クラスの、いちいち張り出される方の個人業績評価において、今後も永続的に最上位を確保し続けること、そして、もうひとつは、中等教育課程在学者としては高い水準と品質の情報コンテンツをひねり出し、組の外に向けて発信することで、組の文化水準の高さを、全宇高関係者およびそれ以外に印象付けることである。
前者に関し、本来の目的達成のためには、組全体の学業達成水準の平均を引き上げればよいのではないかという理屈もあると思うが、当時の俺の器では到底無理だった。なので、極めて選良主義的なやり方によって、組の学業水準の高さを象徴的に示す戦略しかとりえなかった。ただ、この際、絶対に満たさねばならない必要条件があった。それは、わが組に賦存した唯一の先発的な選良であり、宇高のあらゆる人的なネットワークに精通し、学業を成功に導くために有益なあらゆる情報にアクセスする能力を有した、そして、俺とともに、組の国宝に指定されていた大橋先生との協働だった。
まず、大橋先生に期待したのは、これから目白押しにスケジュールされていた「査定ラウンド」に際する分業的協働だった:俺が日本古典・漢籍・世界史・現代英語といった、幅広い人文教養に基づく世界観とか言語観、それから知識間の縦横の関係を網羅的に把握する能力とかが正答率を引き上げる教科でまんべんなく高評価を獲得するのが得意だったのに対し、大橋先生は、文系高校数学・生物・日本史・現代文といった、具体的で体系だったトレーニングを基礎に、膨大な数の機能関係の組み合わせを整然とインデックス化できる能力、複雑なパズルを一定のアルゴリズムに基づいて効率的に説く能力、そして鋭いひらめきで出題側の意図を読み解く能力が決定的な成功要因となる教科で、高いパフォーマンスを挙げていることを見抜いていた。なので、現代英語や日本史では相互に重複部分はあったとはいえ、相互が優位を持つ科目において重点的に高い査定結果を得るという戦術が、組全体の目的達成のためには、最も有効かつ効率的だと思われた。というのは、全体結果だけでなく、各科目別の査定結果において、最上位にお互いの名が記載されれば、その横に立つ、「2年8組」の旗の数が、間違いなく最大化できるからである。
あまりにもできすぎた話で恐縮だが、非常に勘のいい大橋先生は俺の意図をさっと見抜かれ、何も言わずにこの茶番に付き合ってくださった。このことは、今でも心より感謝している。組指定の国宝仏二柱が、互いに足を引っ張りあうことなく、互いを認め合い、信頼に満ちた協働をしてた事実自体が、当時の世相の下では、かなり奇跡的であった。思うに、大橋先生の生来のからっとしたご性格が、俺のようなわけのわからない奴の存在を許容することで、両者間で協働に関する暗黙の合意が得られ、以下のような、2学年時の宇高の最重要な模試での画期的な成果につながったのではなかろうか:
我が極上の仲間たちが固唾をのんで見守る中、査定表はくるくると張り出されていった。そして、文系総合一位に俺の名前、数学一位に大橋先生の名前が現れ出た瞬間に、皆の大きな歓声がどっと上がった。その他の科目でも、一位の科目があったのかもしれないが、俺の目は、この二つの競技科目の「一位」だけに注がれていた。前者は当然だが、後者は、「自習事件」において、わが組が、ダントツの平均値差で、最下位のメダルを獲得していたことを、渡辺先生御自らご説明いただいた科目であったためである。そして、よくよく個別科目の上位ランキングを眺めてみれば、中山先生の「世界史」も含め、多くの組員たちが、ぽつぽつとではあるが、相当な成果を上げているのも見て取れた。いや、誰が何位を取ったのかなんざ、正直どうだってよかった。討ち取った数々の各教科の順位の首級の隣に、「2・8」の御旗が誇り高く翳されていることこそ、組外に向けた我々のメッセージだったのである。
他の組の旦那衆があっけにとられて見守る中、俺たちは肩を組み、手を握りしめあい、馬鹿みてぇな歓喜の渦の中にあった。そこに、渡辺先生が通りかかられたのを見て、俺が満面の笑みで、「先生、いかがっすか?」と問えば、渡辺先生、苦笑いをされて、「8組は最近、インフレ気味だな!」と一言。まさに、「勝利」を感じた瞬間だった。俺たちは、「屑クラス」ではねぇってことを、体を張って証明したんだ。
以降、2年8組が、内外の模試や定期試験を含め、学業上の各種試験の最上位を占領し続ける存在であることは、既成事実になっていったし、俺も大橋先生も、自明のルーティンワークとして、涼しい顔でこの任務を遂行し続けた。だが、わが組の地位向上をこんな程度のモノで完了させる気は、俺にはさらさらなかった。
上記の模試結果が発表されて三日もたたないとある日、俺は、大橋先生に対し、「文化事業構想」を持ち掛けた。具体的に何かというと、2年8組から何か、文化・学術関係の水準の高いコンテンツを対外的に発信し、衆目を集め、そして周囲のわが組に対する崇敬の念を起こさせるというものである。もっと突っ込んだ話をすると、現在我々が従事している中等教育程度の学習内容の水準をはるかに上回った、文化人レベルの講演やシンポジウム、学術研究成果の発表を組として行うというものである。
要するに、「白い巨塔」の財前助教授(当時:田宮二郎編)のお舅さん(曽我廼家明蝶)の名文句、「ゼネを稼いだら次は名誉や」の応用編で、「学業で成功したら次は文化だぜ」との発想である。
ただ、このような構想を実現するために必要な組内に蓄積された能力が、現時点で完全に不足していることくらいは、大橋先生のみならず俺にだって明らかだった。俺と大橋先生の当時の能力を足し算したくらいでは象に立ち向かうミドリムシくらいの強さにしかならなかったし、他の多くの組員が経営してた大衆文化を生成するための中小零細工房をフルで全稼働させたところで、できるコンテンツの幅も質も明らかに限られていた。
思案の末、俺がたどり着いた結論は、目的達成のためには、しかるべき能力を持ったコンサルタントの助言が不可欠ということだった。いつも頼みの大橋大明神に、しかるべき人物の紹介をしつこくせがんだら、「なんでこんな大馬鹿にかかわっちまったんだ」とばかり、後悔と絶望の入り混じった顔をしていた。だが、さすがは根が親切すぎる同先生のこと、その卓越した人脈を駆使して、翌日放課後には、当時、宇高随一の碩学にして第一級の教養人・文化人であらせられた、だが十年会にはいらっしゃることができなかった、中條先生(お医者先生)を、はるか向こう岸の理系クラスからはるばる引っ張ってきた。
宇高内の万事に疎かった俺でも、以前から、中條先生には注目していた。8組まで伝わってくるその名声もさりながら、昨年の学内自主研究コンクールにおいて、トーマス・マンにかかわる優れた論文を書き、1年生にして銀賞をとっていたからだ。
初対面の中條先生は、まずその雰囲気からして違っていたし、我々とは全く違った視界で、物事を見通していることが、一目で見て取れた。にもかかわらず、同先生は俺に優しく微笑まれ、「どのくらいお役に立てるかわかりませんが、よろしければ具体的に何を知りたいか、教えていただけますか」との、有難いお申し出。
で、少し身構えたが、いきなり議論を吹っかけてもかなう訳もないので、正直に、「まず一つ、先年の研究コンクールで金賞を取った、現三年の先輩の『桃太郎とラーマーヤナ』の研究について、なぜ両者が結びつくのか、その理屈がどうしても納得できねぇので」と問えば、中條先生、あっと驚いた表情をして、「確かに私も、同様の感想です。私は、Mythologieのアプローチと理解したのですが、それであれば、後期あるいは末期縄文期に相当するかと思われる当時の日本人と、当時の印度亜大陸の住民との間における、語族上の対応性が学術的に証明できない以上、両者が神話における何らかの理解を共有していたとは、考えにくいのです」とのご回答。
「ん? みゅ、ミュトロギー?」「神話学のことです。」 何のことか、はぁ、全くわかんなかった。にもかかわらず、中條先生は立て板に水で容赦なく、「例えば、印欧語族に関しては、ジョルジュ・デュメジルがその著書『ゲルマン人の神々』において、印度亜大陸およびアーリア民族の神々と、ゲルマンの神々、ひいては、古代ラテン・ギリシアの神々との共通した、三位一体の対応関係をかなりの説得力を持って論証しています。神々のグループを構成する各機能神の役割は、印欧語族間で入れ替わることもあるのですが、多くの場合、共通の語根に基づいた名を持った神々が同語族内で同様に見出されることもあるのです….」と熱く語りだされた。
俺はとにかく圧倒された。その中條先生が繰り出す言葉の一つ一つが、次々と、とんでもなく奥深く含意にとんだ新しい世界の地平をこじ開けていく有様に。そして分かった。俺が今まで眺めていた「永遠」の際が、するするととんでもなく向こうに遠ざかり、見えなくなっていく有様が。そばで腕組みをして立っていた大橋先生もほとほと感心した様で聞き入っていた。
この初回の会談以降、放課後になると毎日のように中條先生をお招きしての学術・文化・芸術・哲学・言語学・論理学・数学・自然科学・文学・歴史・政治経済etc.のテーマにわたる講義と研究方法論の伝授、そしてこれに引き続く議論が、2年8組の教室内で遅くなるまで行われるようになった。一つ一つのテーマを列挙すると、宇高同窓会東京支部のこのHPを統括されている黒崎先生より提示された、同原稿の提出期限(6月10日)が絶望的になるのでやめておく。だが、この時の活動を通じて身に着けた重要な態度がいくつかある。それは、目前の現象の本質を理解するには、その構成原理にまで遡り分析する必要があることである。また、研究対象のいかんにかかわらず、何かを研究する際には、これまで是とされてきた公準や命題をまず認識し、そこから、研究対象の様々な角度からの再観察・問題意識の形成・新仮説の提起というプロセスを通じて、新たな議論の地平を切り開く必要があることである。そして、最後に、このための最重要な基礎として、幅広い、そして自分にとって未知の基礎教養を無限に追求する姿勢を維持することである。
とにかく、中條先生が時間を惜しまず我々との対話を続けてくださり、また、惜しみなく豊富な学術上・文化上の非常にレベルの高い話題と知見を提供してくださったおかげで、俺の中に、次第に、文化人としての自身が発信したいと思うコンテンツが形成され、蓄積されていった。そして、それを中條先生や大橋先生の助言を受けながら磨き上げ、作品化し、自身の能力が届くと思われるありとあらゆる場において、次々と発表していった。
この文化事業に関してはもちろん、失敗や企画倒れのほうが圧倒的に多く、その度に釜井先生に優しく慰めていただいたことばかり思いだされる。だが、記憶に残るものだけでも数えてみたら、構想したプランの7分の一程度は、実行に移したようである。
このうち、校内の弁論大会に出場して、確か「おたくの現在」なる論題で優勝を勝ち取ったことが、同期の紳士の方々の記憶に比較的よくとどめられている模様である(高久先生談)。このほか、雅樂守酒井氏の時期における前橋城の研究を行い、外部の高校生自主研究コンテストで努力賞的なものをとったこと、事実上廃部状態にあった文芸部の年報で『風瀟々』なる純文学的なプロットを書き上げ、隅内先生や手塚先生といった国語の先生に絶賛されたことなどを、手前ではよく覚えている。おかげで当時の教頭先生や校長先生が文芸部活動に興味をお持ちになり、文化祭のブースにわざわざお越しになられ、「感状」的なものを頂いたことは、俺にとってはまあ、一つの勲章みたいなものとして記憶されている。
そして、これも高久先生のご講評を信じるならば、マーケティングの才能に満ち溢れた大橋先生のご発案・企画・プロデュースにより、文化祭かなんかにおいて、大橋先生と文転された中條先生、そして俺を加えた「文系の三奇人」サロンが開催され、文化を語り、討論し、またフロアからの質疑応答に対し、「宇高文化人」の最高峰を構成するとの既成事実を固めあげていた我々が回答するという一期一会なパフォーマンスが行われたことなどが、この文化事業の一つの金字塔のようなものだったらしい。
とまあ、以上が、俺に心地の良い居場所を提供し、そして、常に生きがいとエネルギー、そして万事におけるモチベーションを提供してくれた2年8組の極上の仲間たちに対する、俺の心ばかりの恩返しだった。
だが、振り返ってみると、俺がそれほど気張らずとも、2年8組の地位向上は、皆がそれぞれの持ち味を生かして、各々の方向性で活躍を続けることで、すでに達成されていたのではないかと思う:羽石団長はその逞しい拳で団旗を支え通し、常に、宇高を勝利に向かわしめることで、組の「丈夫ぶり」を内外に示し続けた。田代課長は、その頼もしい背中でトップとしての模範を示し続け、宇高野球部を県内有数の強豪校に導いた。また、中山先生は、体を張って、自らの生きざまと実演パフォーマンスにより、「かぶきの美」という、組を貫く美学を対外的に示し、その真価を問い続けた。一方、組の内政では、鈴木(寛)次長部長が、組のムードメーカーとして、明るく、おおらかな雰囲気を作り出し、皆が楽しく過ごすことができる環境を作り出していた。また、田巻社長は、組内をくまなく巡行し、あらゆる人間関係上のトラブルを適切なアドバイスで解決していたし、渉外として、他の組の多彩な人材を紹介することに努め、常に新鮮な空気を組内に提供していた。そして、釜井先生は、その素敵な優しい微笑で、俺みたいな失敗だらけの無名戦士たちを、社会政策的にケアして下さっていた。そのほかにも組内では、各自が自主的に大衆文化の振興に努めていた。特に、各自が秘蔵する国宝級の芸術作品を惜しげもなく開陳しつつ、「芸術的裸婦光画」あるいは「現代的春戯画」に関する、きわめて高尚な芸術的談義に興じるサロンが毎日のように開かれ、わが組の文化度の向上に確実に貢献していたものだ。 そう、組内では皆が成長を続け、互いに各々の貢献を行い、組の地位向上を実現していた。我々はいつか、「屑クラス」としての汚名が全く似つかわしくない集団へと変容していた。当時の宇高を取り巻く世相との関係で、2年8組に対する評価を与えるなら、いかなる前例も当てはまらない、「異形の選良集団」という称号が、もっともその本質を言い当てているのではないかと思う。そして、これが形成される過程において、烏合のヒヨドリの集団から出発した我々は、いつしか、相互の激しい燃え盛るような化学反応を経て、「極彩色の鶴」が構成する、結束力の極めて強い共同体に進化してたんだと思う。俺は少なくとも、その化学反応を促進するための一粒の触媒の役割程度は、果たしていたと自負したい。
(以下後編に続く)