「平成5年卒 10年会を終えて:極上の仲間たちと自身の原点の再発見」(後編)
この共同体の中で、俺は毎日、この上もなく楽しく、そして、極めて多忙な日々を送っていた。この状況を表すエピソードが記憶によみがえったので、記させていただく:
とあるよく澄み渡って天高き、夏の早朝の爽やかさが実に心地いい通学日の朝、いつも勢いよく自転車で疾走していた飲食店の前で、小股の切れ上がったちょいと粋なネエさんに、留袖から白く磨かれぬいた象牙のように輝き出でる腕を振って呼び止められた。こんな稀有なことは俺の人生で皆無だったので、悪い気もせず、愛車銀星号より下馬して定法通りに一礼すると、ネエさん、愛車の尻に張られた校章を一瞥して、良く通る切れのいい江戸弁で、「なんだい、宇高の兵隊かい」ときたもんだ。
「呼び止めてぇて、『なんだい』はねえべぇ、姐さん。」と俺。
「いやさ、毎朝店の前から眺め暮らしてて、何をそんなに楽しそうにチャリこいでんのかねえ、と前々から聞いてみたかったのさ」
「こんな仏頂面のどこが楽しそうに見ぇんだよ」
「なにいってんのさ、雰囲気、雰囲気だよ」
想定してもいない質問に、優しい光をキラキラ注ぎ始めたお天道様眺めて、少し思案して俺、
「なっから素敵な仲間たちが待ってんだよ。極上の仲間がよ。片っ時でも極上の時を失う訳にはいがねえやな」
それを聞いたらネエさん、目を細めて満足そうに
「男ってないいねぇ… ほら、野郎どものとこに行ってやんな。遅刻すんなよ!」
「おぉ、あたぼうよ!」
いや、本当に楽しかったんだよ。
他教室から隔絶された2年8組の教室を吹き抜ける孟夏の疾風、お空にはギラギラとにっかり微笑むお天道様、緑燃えさかり、吹き盛る風に首を激しく振りまくる木々の葉っぱのざわつき、狂ったようにゲラゲラ咲き笑う極彩色の野の花、絶叫つんざく油蝉の咆哮、教室内に終わりなく鳴り響くおおらかな哄笑、元気いっぱいなだけで調律の狂った発情期の野良猫の小唄披露会、あるいは「寝床」のような、下手っくそな男性合唱、様々な学術上のテーマをめぐり遅くまで延々と続く喧々諤々の議論の応酬…目を閉じると瞼の裏に、こんな情景だけが思い浮かんでくる。この舞台の上で、皆がアクターとしてそれぞれの役割を演じつつ、生き生きと輝き、飛び回っていた訳さ。
ただ、永遠に盛夏は続くわけもなく、残酷な神なる時は、我らが健児の黄金時代を強制終了した:2学年は平成4年3月末を以て終わるってことを、俺はすっかり忘れてた。
実は、俺は、手前がそのあとシャッフルされて送り込まれた3学年の組が、「何組」だったか、今でも思いだせない(野口先生、お許しを!)。多分、国立文系難関校の志望者を集めた組だったと推測する。というのも、2年8組ではとても繁殖しようもない錚錚たる紳士の方々ばかし揃っていた。組を表敬訪問する方々の母集団も完全に入れ替わり、今までは雲の上の人だった柴田次長や太田先生のような重鎮の方々とも、親しく話ができるようになっていた。また、この駄文にしょっちゅうご登場される高久先生とも、いささかの知己を得る栄誉に浴せたのは、この組への「栄転」があったればこそとは思う。
新しい赴任先において、2年8組出身者といえば大橋先生くらいで、これに、文転してきた中條先生が加わっていたことだけが、数少ない以前からの連続性だった。
しかし、正直に言うと、この選良集団だったはずの3年時の組で、手前の頭の中に思い浮かぶ風景は、大橋先生・中條先生と企てた企画にかかわるエピソードを除くと、ほとんど残っていない。その後、大学受験に全面的に成功を収めた事実、また、数々の文化的行事に出場して、同期の名士たちの記憶に顕然とわが名を残している事実を顧みると、多分、非常に順調に、手前の高校生活の余生が進行したものと推測する。だが、この期間中、俺の中で、何かが完成してしまった、もっと悪意を込めて表現すれば、何か激しく燃え上がるものが沈静化してしまっていたのではないかと、つくづく思う。それまでの俺の意識は、常に2年8組の地位向上に集中していたし、同校における学業上の成功も文化活動で得た名声も、その副産物でしかなかった。高久先生は、3年時に俺が従事した文化活動のいくつかを絶賛されておられたが、俺にとってあれは事実上、オワコンに過ぎなかったんですよ。
記憶に留まる宇高生活最後の思い出は、卒業式でも何でもない。敬愛する諸先生方からの最後の助言を集めさせていただいた後、東大文科二類の受験に向け、東京に出発するために、風呂敷をそっと首に巻き、玄関までいざりいでたときの一風景である:
夕暮れで薄暗くなった廊下のあなたより、澄んで荘重なる声の響き渡りき。曰く、「Quo vadis?」。振り向けば、2年8組名物の芸術サロンで、自然造形の芸術性の至上性について共に熱く語りあった関口氏の姿があった。
千田先生による現代英語の造語法を扱った授業で習った羅語の、非常に限られた知識だけを駆使して適当な文言をとっさにでっちあげて、「Ad Tokium, Domine !」と返せば、関口氏、大きく頷いて、ゆっくりと力強いバリトンで、「Bona furtuna, Amice!」ときた。ぐっと来て、野口先生の机上に放置されてた「現代西語会話集」より拾い上げた西語とごったまぜのクレオール羅語で「Magnas Gratias, hasta Vistam」と叫んで玄関の外に踏み出し、振り返り一礼した。関口氏、腕を組んで、大人しく莞爾として、大きく手を振り、「Salve!」。これに「Ave!」と返すのが精いっぱいで、あとは熱いものが噴出してやまぬ両眼に手拭い当てて駅に向けて走りだした。これが、宇高脱皮時の俺の最後の姿だったんさ。
その後、30年後の平成5年卒10年会に至るまで、関口氏との再会を未だ果たせていない。
多分、総計2万字を超えるこれだけの長々しい私小説を、宇高東京同窓会の栄えあるHPに投稿する大馬鹿は、後にも先にも俺一人だと思う。だが、ここまで書いてみて、このような「傾いた」姿勢をあらゆる場面で美学として追及する自身の原点が、2年8組での生活にあることが明確になってきた:
俺の人生、その後、どこに行っても、往時の2年8組と似た集団を再生産する行動に出てきたのである。例えば、東大では、公式に進学したはずの経済学部ではなく、廃部寸前の「尺八部」での勉学に明け暮れ、いかなる基準でも棄却域に入っちまうような資質と傾向の仲間を揃え、開発し、徒党を組んで悦に浸っていた。そして、今年も6月24日に「東大尺八部OB定演」に、この時の「極上の仲間」を率いて参加することになっている。また、メインの所属学会である日本労務学会でも、最も困難な状況にあった「東北部会」を率い続け、同じような「極上の仲間」を作り上げて、研究報告を多量に実施させ、その学会内での地位を向上させることに尽力してきた。また、大学の演習も、一次募集から応募してくるような「模範的」な学生を嫌い、三次募集でやってくる個性に満ちた落ち武者連中をかき集めて密かに楽しいことをすべぇと、前任の東北大学でも現職の明治大学でも企み続けている。こんなところは、2年8組で採用していた行動規範と、全く変わることがない。つまり、その時その時与えられた権限を最大限乱用し、同組と似たような分散を持つサンプルで構成される標本集団を作り、手前にとって居心地のいい場所を確保する行動を今日まで続けているのである。
このことを13年下の女房殿に話したら、「それって、中二病じゃなかろうもん?」と、相変わらずゆるーんとした博多弁で、のたまったもんだ。当時は中二病なんて言葉は無かったので、Wikipediaで調べてみて、激怒。「俺の生きざまを、そんなやっけぇ言葉で片付けんじゃねぇ!」、以上。
しかし、原点といえるものはまだ他にもあることに気づいた:考えたら、今の仕事を選んだ理由も、あの宇高での文化振興事業の関連で、中條先生と大橋先生と交し合った、ありとあらゆる学術上の議論の甘美さを忘れ去ることができなかったことにあるんではなかんべぇか。この時の麗しい思い出の数々が、これだけ明らかに才能がないわが身を顧みることなく、いつまでも学術にしがみつき、結局、「塵も積もれば」の原理で、大学の学者のキャリアを継続することにつながっているようなのである。
さぁて「もっとこの先読みてぇけれど、下手で長ぇは御座の邪魔よ」なので締めくくりに:
この原稿を書き出してみて、自身が今まで、宇高の極上の仲間たちにどのくらい支えられてきたかが、ようやく明らかになってきた。今までは流浪の宿命を口実に、何のお返しもしてこなかったが、去年となり、ようやく故郷に腰を落ち着けることができたのだから、俺もなにか貢献しなければと思う。旧2年8組の仲間たちに対して特にそう願うのだが、今や一流の名士ぞろいの彼らはきっと、口をそろえて、俺たちのことなんざどうでもいいから、輝かしい未来を背負った母校宇高の後輩たちのことを頼む、と熱く語りかけてくることは、火を見るよりも明らかだ。
ということで、いささか役不足な気もするが、今後は、学者としてお国の学術水準向上に尽力すると同時に、母校の後輩たちにとって「極上の先輩」としての役割を果たせるように、キックオフしてみたいと思う。3回目の10年会デビューの同窓会一年生ということで大変恐縮だが、ご寛容のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げたい。
石塚(鹿又)史樹 (平成5年卒 明治大学経営学部教授)