「無事」を知る
11月15日に東京大手町のKKRホテルにて宇都宮高校同窓会東京支部の総会と懇親会が開催されました。参加された諸兄は楽しい時間を過ごしていただいたと支部同窓会理事一同は喜んでおります。また、日頃の支部の活動にご理解をいただき、総会と懇親会にご参加いただいた方々には深く感謝いたします。
お会い出来た方々の無事を知る事ができた喜びで安心いたしました。

「無事」といいますのは、一般では「かわったことのないこと」、平穏無事なことをいいます。
私が、やっております禅仏教では、本来の私たちは、そもそも仏であるので、求めるべき仏も無ければ、歩むべき道も無い事をいうのです。仏教徒であるのに、仏も求めなければ、道すら目指さないというのはどういう事なのか。そんな事いわれても意味が分からないとおっしゃる方、大丈夫です。安心してください。私も分かっているかというと正しく分かっているわけではありません。むしろ、分かったと言ったら、本当かと突っ込まれて悲惨な目に遭います。
だいたい本来、私は仏だといわれても、私は生きているぞと言いたくなります。
それでは、仏とは何ぞや。という問題になるわけですが、お釈迦様は、取り敢えず歴史上の存在ですので、間違いなく仏です。「本来私が仏だ」という仏はお釈迦様が乗り移っているわけはありませんから実体のある仏とは見方が違います。それでも仏というのですから、お釈迦様と何か同じ条件を持って、本来は仏である言っているのでしょう。それは何だろうという事になります。
有名な「般若心経」というお経があります。その中にこれまた有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」という一節があります。私は、この「空」を仏と見ています。大乗仏教になって、いろいろなお経で「法を見る者は仏を見る」と言われました。
「空」は、原始仏教から言われている「諸法無我」になります。「諸法無我」は、あらゆる存在や現象には固定的実体、自己(我)が無いという事です。「空」もあらゆる存在は、因縁によって成り立っており、固定的実体的な本質が無いという事。つまり本質が無いという事は、「我」すら無いという事になります。いわば、「諸法無我」という仏教の根本的法が、大乗仏教になって「空」という法にランクアップしたという事なのです。
「空」は、仏なのです。という事は、「色」は、本来は、ある瞬間の姿かたちを言いますので、現実世界の様々な障害物に激突しながら七転八倒して足掻いている私たちそのものなのです。「私たちは仏に異ならないし、仏は私たちに異なるわけでは無い。私たちは即ち仏と言えるし仏は私たちそのものなのだ。」という一節なのです。
「般若心経」がそう言っているから、そうなのかもしれませんが、それを納得できなければ意味がありません。「空」の概念は変化しています。元々は、空というからには、コインパーキングの表示で「空」とあるように、駐車場に空きスペースがあるのと同じで空いているという意味から出発しています。空いている、つまり、欠けている。空白があるのです。
生命科学者の中村桂子先生がおっしゃるには、遺伝子の研究が進んでわかったのは、みんな欠陥だらけだったということです。少なくとも、遺伝子の働きでこの世に生まれた私たち生命は欠陥だらけなのです。欠陥は、足らないところです。詰まっていない余白があるという事です。
余白って、「遊び」と言いませんか。面白いことに、仏の一歩手前の菩薩である観音菩薩の私たち衆生に対する働きかけを「遊行」というのです。観音様は、この世界で遊んでいるんだというわけです。
仏教は、「遊び」でなければいけない。仏教に引き入れるんだと凝り固まって動いている人は、仏教とは違う人です。仏教とは違うかもしれませんが、私は、間違っているとは批判いたしません。仏教の目指す安心を得る事はできませんが、違う物を得る事はできるでしょうから。元々仏教は、仏を求める事も道も無いのです。
話を戻しますと余白が仏というのは、余白があるから、いろいろな事がその余白に出たり入ったりできますので動きが生れます。個々の事物に動きが生れるという事は、その動きによって全体に揺らぎが生じます。また、いろいろの事が出たり入ったりする事によって近い物同士で重なりや共有など綯い交ぜになってきます。因縁が生れ、事象の変化ができるのです。この世を動かしているのは、遊びなのです。だから、遊びこそ仏であるという事なのです。
私の人生にも余白があります。会社を辞めるまでは、現役のまま学校も自分の中では、会社の中の位も人より進んではいませんが現役ですごしてきました。会社を辞めた後、住職になるために京都のお寺の修行道場に修行に行ってきました。最初の入門の許可を得るために、玄関先で土下座のように頭を玄関の上がり框に押し付けていたり、坐禅を組んだまま黙って日を過ごしたりするのです。まだ坐る事に慣れていないときでしたから、雑念が噴出します。
「私は何をしているんだ。何もしていないんじゃないのか。」自分自身に心を向ける訓練だと思います。
「私はいったい何者なんだ。」とひたすら見ようと見つめ続けます。それまでのサラリーマンとしての社会生活との縁を切るために今の自分自身を見つめ続けるのです。これはきつかった。
禅宗では、僧侶になるために修行する人を「雲水」といいます。雲水は、収入が基本ありませんから無職ですし、修行道場に入門できたとしても出た瞬間から住所はありません。住”職”不定です。だから、自分の元のお寺に帰ったら住職になるまで、あやふやな存在になってしまうのです。
入門出来た後も、修行道場から逃げたならば住職不定です。正真正銘の無職無住所になってしまいます。きっと元のお寺からも追放されて何も無くなってしまうのだろうと考えました。
禅宗では、「本来無一物」といって、生れたときに何も持たずに生まれただろうから何かを持っているように見えても何も持ってはいないのだと諭します。もともと持って生まれてきたわけでは無いというのです。禅宗では、この何者でも無い何ももってはいないという心を忘れるなと強く戒めます。ですから、坐禅をして自己を徹底的に見つめ直せというのです。
坐禅を昔のたいへんえらいお坊様である六祖慧能さんが、坐禅を自分の外の事には善だの悪だのどうのこうのと分別をしない。自分の内の本来の自分を見ても動じてはいけない。と言っています。「動じる」とは、動揺する事です。本来の自分自身の奥底を見て動揺してしまうのです。
「動揺してはいけない。」とは、動揺するようなものが、私の内にあるのでしょうか。動揺するとは、何かがあるから動揺するのではなくて何も無いから動揺するのだと思います。何者でも無い、何も持っていないのです。真っ裸で立ち尽くしている自分しか居ないのです。
禅宗では、真っ裸で立ち尽くしていながら、何物にも依りかかるなと言います。何物にも依りかからずに自分一人の力で立ち尽くす自信を持てと言います。どうせ死ぬときは、一人で息を引き取るのだから、動じずに腹からの呼吸を深くゆっくりとしなさいというのです。
まだ、私は、心が揺れ動き浅い呼吸をしてしまいます。それでも、未だ途中にあるのだから、息を少しゆっくり吐き出して少し深く吸い込みます。少しずつ、少しずつ、気づいたのだから少しずつゆっくり深く呼吸していきます。呼吸が、もう少しゆっくり深くなったら無事が見えてくるかもしれません。皆さんにお会い出来た時、安心できたように無事を知る事ができるかもしれません。 また、お会いできたときに無事を知り安心できるように、皆様の無事を祈らせていただきます。

渡邊恭山(副支部長 昭和54年卒)