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この時間の流れ

千葉雅也(平成9年卒)

哲学者・作家 立命館大学大学院先端総合学術研究科教授

ちょっと驚くくらい、変わっていない空間だった。

ガラス面が続く長い廊下があった。そこに生徒会室がある。その前あたりに、自習のための新しい建物ができたから、ちょっと感じが違うかもしれないと事前に聞いていた。あの廊下にガラス越しに降り注いでいた光の感じ……その光が遮られているというわけである。だが行ってみると、なるほどその建物はあったが、「感じ」はそれほど変わらない気がした。変わらないのは、しかし、僕の記憶の方なのかもしれない。現実が多少変わっても補正してしまうくらいに、僕は、沈殿し固まった記憶の方を見ているのかもしれない。

正面玄関から見たこの感じ

今回、2023年2月3日、大変光栄なことにご依頼をいただき、母校・宇高の創立記念式典における講演を行った。

教頭の佐山利晴先生から、僕のメールアドレスを「冨山」という卒業生から聞いたとのことで、ご連絡をいただいた。その名前には覚えがあった。僕が卒業後に書いた「受験体験記」に影響を受けたというメールを以前くれた、冨山千紘くん(令和4年卒)だった。その文章は「僕/猫」というタイトルで、受験体験記としての規範からいささか外れた書き方をしたものなのだが、僕は気に入っていて、それがずっと後の宇高生に届いたことに驚いたのだった。そして冨山くんも、僕と同じく東大文三に進んだ。なんと感慨深いことだろう。

「僕/猫」https://note.com/masayachiba/n/na2cfcc803c5e

ずっと以前、大学院に進んだ頃だろうか、卒業生が何人か招かれて進路について語る機会にお呼びいただいたことがある。そのときには、現役の宇高生との年齢差は5歳ほどだったはずで、だからまだそのときには高校時代からの延長上にいる先輩として訪問しており、同じ時代を共有している意識があった。しかし、今回はまったく条件が異なる。僕は1978年生まれ、宇高を卒業したのは1997年(在学は1994〜97年)。真ん中をとるとして今17歳の生徒は2006年生まれ(!)だから、僕が宇高にいたときにはまだこの世に存在していない。存在していないどころか、僕が17歳=2年生の1995年というのは、2006年から見て約10年も前なのである。これは途方もない年齢差であり、まったく異なる歴史的位置にいることになる。

17歳というのは、45歳にとっては十分ありうる子供の年齢だ(28歳のときの子供)。実際、体育館の壇上に上がり、ずらりと並ぶ黒い詰め襟姿を眺めやって、まず思ったのは、「子供だ……」ということだった。かつて自分はこんなに子供だったろうか。高校生というのは、自分の意識としてはもっと「ませて」いるつもりだった。こんなにあどけない顔、頼りない体躯だったろうか、と。

僕の父は今年70になるので、年齢差は25歳。僕が17のときに42だから、今の僕よりも少し若かったわけだ。まあ、おおよそ僕はあのときの父の年齢で、息子に対するのとだいたい同じ距離の眼差しで、今の宇高生を見たことになる。

それにしても、あの頃の父というのは「こんな」だったのか、と自分の意識や体のことを思って、不思議に感じる。ものの見え方、人間関係のわかり方、コーヒーや酒やタバコの味、もう夜更かしができなくなったこと、肌の老化。

40半ばになって、老化に向かい始めたなと思う。40になったばかりのときは、まだ中年と言ってもそんなには、と思う余裕があった。30代なんて、まだまだ20代と違わないと思っていた。ここ数年、とくにコロナ禍による閉塞感も後押ししたのかもしれないが、いよいよ本格的に中年になり、体が半分過去にあるような人間になった、世界はいよいよ本格的に異なる相貌を見せ始めた、と感じている。

先日、坂本龍一が亡くなったのもショックだったが、昭和の大文化人が最近次々に亡くなっており、「僕の世界」を構成していたパズルのピースがぼろぼろと外れていく。個人的には、ついに世界の崩壊が始まったという感じだ。20世紀の本当の終わりである。僕は20世紀の人だった。20世紀最後の宇高を生きたのだった。

今の宇高生が20世紀を知らないというのは、驚くべきことだ。5歳くらいの経験はけっこう覚えているものだが(僕はそうである)、2006年生まれならば5歳は2011年になる……そうか、震災の年なのか。

多少前後するにせよ現時点での高校生は、震災以後を生きてきた世代、というか、僕の観点からすれば「震災以後しか生きていない世代」なのか。

あのとき、日本からは何かが失われた。僕の感覚としてはそれより早く2008年のリーマンショックあたりで、90年代から連続していた2000年代までのまだ牧歌的だった日本社会の雰囲気は、大きく崩れていった。僕はその時代に青春をすごした。さらに遡れば、90〜00年代というのは80年代バブルの延長上であり、戦後日本が最も明るく輝いた時代のその光が、ぎりぎり2000年代半ばまでは灯っていたと僕は思うのである。

今の高校生は、その光に幕が下ろされた後の日本だけを日本だと思って生きているのだろう。と言うと極端かもしれないが、僕はそれくらい遠い世代に向けて話をすることになった。

何を話したのか。「美術から批評へ——宇高時代の話」と題して、もともと美術制作を志していたところから、次第に批評的な文章へと関心を移していき、結果的に哲学の研究で博士論文を書き、だんだんと書くものの幅を広げ、小説を書くようにもなったという約25年の過程を、時代背景を補いながら説明した。

宇高での学びが、そうした展開を可能にした。当時美術を担当されていた有坂隆二先生の影響が大きい。有坂先生の授業は実験的、前衛的なものだった。ただ好きに絵を描くのではなく、認識のあり方を深く問題にするようなコンセプチュアルな課題に取り組むものだった。僕は美術部にも参加した(当時の部長は、現在アーティストとして活躍している田幡浩一である)。有坂先生との対話から学んだのは、作品をどう作るかはもちろんだが、それ以上に、思考と言葉をさらに練り上げる必要があるということだった。

それにしても宇高は相変わらず、ざっくばらんだった。こちらとしてはそれなりに緊張して訪問したが、形式張った感じはまったくなく、ごく自然に受け入れていただいた。それは、かつて経験した放任主義の自由さと同質のものだと感じた。

この日は冨山くんも来てくれて、彼も一緒に、佐山先生のご案内で校内を散策した。卒業生の来訪とはいえ、不躾にあちこち見てもいいものかとも思いつつ、宇高の中は相変わらずの様子で、まるでこの空間では時間が非常にゆっくり流れているかのようだった。生徒会室は鍵もかかっておらず、促されて入ってみると、かつて毎日見ていたような散らかり方が同じように反復されていた。ノートPCを使っている様子が、新しいといえば新しい。アニメの女性キャラクターがプリントされたマウスパッドがある。僕の卒業後、つまり21世紀に一般化したポップカルチャーが自然にある。だからやはり時間はゆっくりとでも流れている。

図書館には拙著のコーナーが作られていた

この時間の流れが、これからも続くことは可能なのだろうか。20世紀的なものが次々に失われていくなかで、僕が覚えている宇高はいつまであり続けるのか。あり続けてほしい、とは言えない。ただ、またいつか訪れたときに、まだそれほど変わっていなかった、と思えるならホッとするだろう。そうとしか言えない。

今年、文芸誌『新潮』2月号に、1995年の宇都宮を舞台とし、高校2年生男子を主人公とする小説「エレクトリック」を発表しました。その単行本が5月31日に刊行される予定です。