首都圏研修/フィールドワーク

首都圏研修G班体験記(後編)「大学の学者の仕事:学歴プロレタリアート5代目の視点」

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令和5年11月28日の13:30頃、宇高の後輩が同期の高久順先生に率いられて来るってぇんで、いろんなブツ(説明のための現物資料)を駿河台の研究室内でいそいそと集めていた。何せ、午前中に黒崎先生が満を持して準備した江戸川病院の極上の訪問プログラムをたらふく味わった後、こっちに二次会にお越しになるんだかんな。
まぁ、心配はいらねぇぜ。何しろ、本日は明大側が、毎年5、60人以上ご入学いただいている「上得意の宇高様」がお越しになるってぇんで、到着直後の14時から1時間ほどの「明大案内プログラム」を用意してくださってる。また、俺も「大学の学者の仕事:学歴プロレタリアート5代目の視点」なる駄文を43枚のスライドにビッシリ装填したパワポの報告資料を突貫工事で、黒崎先生からご提示いただいた午前中の報告コンテンツの体裁にパラレルな形ででっちあげて、獲物を待ち構えてんだ。
明大側のガイド様たちの明大案内後の15時から17時までの後輩たちのお世話だって問題はねぇさ。俺もプロの大学の専任学者を、猫なら猫又になる年数やってんだ。「勧進帳」の巻物で3時間ぶっ続けて演説したことだってあんだ。義経公も真っ青だぜ!
こんなこと考えてたら、研究室の戸を叩く音。慌てて開いたら5月以来ご無沙汰の高久先生が元気に莞爾としてご挨拶。後ろには、なんだか30年以上前に戻っちまったようなデジャビュ感てんこもりの雰囲気を漂わせた、大事な後輩諸君12名(11名が理系で1名が文系)が研究棟のうんと狭い廊下で、窮屈な箱の中に入れられたパンダネズミのように押しくら饅頭していた。
そんで、我が研究室の前に鎮座する共同研究室の開いた戸から、この珍風景をしげしげと眺めている齋藤さんと青山さんに、16:30頃に帰ってくるので人数分の、今日だけはノンアルコールの飲み物をご準備いただけるように頼んだ後、リバティタワー13階の1133教室に向かった。教室には明大側がえり抜いた、3名の学生ガイド諸君(2名が政経学部の男子学生、一名が経営学部の女子学生)が手ぐすねを引いて我々を待っていた。
早速、3名のガイド様が3つに案内グループを分けて、それぞれ訪問箇所の順番を入れ替える準備をてきぱきと済ませた後、いざ、リバティタワーの冒険ツアー出発!高久先生と一緒の第三グループに属し、政経学部の野口氏に案内されてエレベータに乗ると、まず、後輩たち、エレベータの窓の外に広がる都心の風景に驚嘆。あっという間に17階の学生食堂についた。学食不在どころか購買部も廃止された後のわが後輩たち、皆、その安さと量にぶったまげて「絶対これ、補助金注入してるよな!」と、さすが、鋭い分析!
次に、普段は入れてもらぇねぇ、そして明大の精神的中枢ともいえるリバティ頂上120mにある23階の、岸本辰雄ホールに案内された。別に、現在の飼い主の宣伝をするわけじゃねぇが、皆、その伝統が醸し出す雰囲気に圧倒されていた。明大建学以来受け継がれた暁の鐘のステンドグラスを仰ぎつつ、見るものに崇高な建学の志を語り掛けてくる荘厳なドーム状の屋根の麓に広がる360度の都心のパノラマ風景は、おっ死ぬ前に一回見ておいても損はねぇ雄大さだ。
この情景に、誰かが思わずつぶやいたのが聞こえた。「我ら富士山、他は並びの山…」。おうさ、そうでなきゃな!
その後、リバティを一階まで再びエレベータで降りると、明大自慢の駿河台図書館の案内。狭い校舎の限界を克服するためらせん状の階段でつながれた各階に整然と配置された書棚を見ながら、俺も後輩も、そして高久先生も、宇高が代々伝えてきた、あの木の香りが何ともゆかしく懐かしい図書館を思い出し、比べていた。ご自身も学者でおられる高久先生は、明大の図書館の、持ち帰り自由の除却図書を、興味深そうに眺めておられた。
最後に我々が案内されたのは、明大のあちこちに巧妙に、そして建築学上の意匠をこれでもかというほどにこらして配置された自習用、あるいは自由に議論できるラウンジやブースだった。明大の学生たちが楽しそうに自由に議論し、皆に見えるところでプレゼンテーションをしている様子、そして、ネカフェさながら設けられた自習用の個別スペースで熱心に勉学に集中する学生を、後輩たちが羨ましそうに見ているのが印象的だった。俺も、このような場所が明大にあるとは知らなかった。国立大学じゃとても期待できない空間を、顧客たる学生様に余すことなく提供できる明大の力に、俺も飼い犬ながら、ほとほと感心した。
さて、そんなわけで、再び1133教室に戻ってきた。あまりにも充実した明大側のサービスで恍惚状態に陥っていた後輩たちに、手前やご先祖の経歴を踏まえた「専任の大学の学者とは何ぞや」を題材とした職業教育をおまけとして行うのは、正直気が引けた。だが、優れたガイド様たちが明大についての説明を不要にしてくれたため、逆に本来の話に集中できることに思い至り、計画を予定通り実行することにした。お客のあしらいがうますぎるガイド様たちが後輩たちをノリ良く盛り上げ、後半の俺の講義に絶妙にバトンタッチして下さったところで、年を経るごとに長さとくどさの点では進化を続ける俺の説教を始めることにした。
説教の中身は、かいつまめば、手前の履歴書を簡単に説明した後、専任学者になるまで・なった後のあれこれ、そして、転大学を通じたキャリア向上について話した後、手前の経験を踏まえて得た、理系文系共通に適用可能な大学の専任学者になるためのノウハウ、そして大学学者の四方山話から構成されてた。そして、これを踏まえた後に、自由民権運動の政治屋だった石塚重平以降4代続いている「学歴プロレタリアート」の家系という歴史的文脈で手前の職業選択を説明した後、理系文系を問わず、どんな職業も、なった後が楽ではねぇということ、そしてもう一つ、俺の宇高・およびそれ以外の関係の先輩を観察して得た体験から「職業は人を選ぶ」というメッセージを伝え、当日の首都圏研修プログラムを閉じることにしていた。


実際には、高久先生が事前に大変なご労力を注がれて集計した、俺の過去の研究論文の読後感想にかかわる参加者側の質問に対する俺のガチな回答から始まらざるを得なかったため、30分ほど、説教の時間が縮まった。恐ろしく早口の古式ゆかしい巻き舌の上州弁でまくしたてられ、後輩たちは度肝を抜いていた。あと、「ヒ」と「シ」の発音の区別のねぇ品詞の洪水、「なっから」とか「大か」とか国語辞書に載ってねぇ副詞の連続、「ばかり」が「べぇ」、「こない」が「きねぇ」といった塩梅の表現変換の数々、その他、大日本帝国時の固有名詞を多用した比喩など、おおよそ予想もしなかった言語世界に対し、最初は言語変換を行うのが大事(「おごと」と読む)だった様子である。だが、さすがは宇高の後輩、間もなく目の前の宇宙人の文法を解析し、数分後にはうんうんと頷くことが可能になっていた
文理問わず、課程博士の就職が著しく困難であることの説明のために令和版「創作童話:博士が百人いる村の話」を引用したときでも、皆健気に聞いていた(ちなみに、大学生で大学学者になりたいといっている奴にこれを見せると、圧倒的大部分はその将来構想を放棄する)。そして、苦労して仕上げた人生をかけた血と涙の結晶の学術論文を出版しようとしても、印税収入で将来安泰バッチグーどころか、コミケの「やおい本」扱いで、逆に180万円の印刷費を持って来いと出版社からたたき出されるという話を、実際に俺が使った学術図書刊行助成申請(研究成果公開促進費)にかかわる書類とブツ(実際に明石書店で出版された博士論文:現代ドイツ企業の管理層職員の形成と変容)を用いてしても、顔色が青ざめる程度で済んでいた。だが、俺が実際に某有名私大の同じポジションに専任教員応募して、最終面接まで行って連続で、政治的理由と人間関係上の理由により3回落とされたという事実を、研究室内の「石塚文書館」に保存された貴重な史料の一つである数々の「お祈りメール」で実証してみせ、また、この世界における「コネ就」もとい「リフェラル就職」、および専任になるまでの長い浪人機関における「紐生活」、そして「博士が百人いる村」の最後のグループが発生する確率を、生々しい実体験をネタにして語り始めたあたりから、この世界のガチな描写に衝撃を受けた大事な後輩の一部が、PTSDの兆候を見せ始めた。

このため慌てて、ブラックな内容に満ちたコンテンツの中間部分を吹っ飛ばし、終盤のご先祖自慢部分に跳躍した。そして、我が家の唯一の家宝である、曾祖父以降親父までかき集めてきた数々の大学の卒業証書を示し、代々続く「学歴プロレタリアート」の生き方について語ることとした。すると、再び、前半の明大案内時の好奇心にあふれた「24の瞳」が蘇生し、「すげぇ!」と皆感心して、変色したご先祖の存在証明書に見入っていた(良かったな、久々に若い人々に注目されて。草葉の陰のご先祖諸君!)。
てな具合で、いつもの通り話しすぎて、予定時間が大分過ぎちまって時計の針が極限まで17時に近づいたため、「研究室内」のツアーは、来年までお預けとなっちまった(後で、わざわざノンアルコールの飲み物を用意してくれた共同研究室のお二人に散々油を搾られたぜ)。何しろ、18時までに宿につかねぇと皆、お飯食いそびれちまうんでな。
高久先生が「最後に講師に質問は?」と問えば、皆、おっとろしく膨大な「石塚ワールド」の無限に生成される情報を叩き込まれた結果、言語化機能が停止しちまってた。
ただ一人、薬学部志望の後輩が瀕死の子犬みたいによろよろと立ち上がり、「『職業が人を選ぶ』というメッセージに著しく心を抉られました。今までは、志望の学部に行けば自動的につく職業が決まるのだと思っていましたが全く違うことがわかりました。であれば、我々はどういう風に『天職』を見つければよいのでしょうか。実は本当は、何を職業にすればいいか、自分でもよくわからないんです」ときたもんだ。
何だよ。昔の俺と同じじゃねぇか。俺は今まで、「理系は文系と違って、各専門分野で学ぶべき文法がしっかりしてるんで、比較的明確に、将来の職業分野のイメージをもって進学先を選ぶ」とばかり思い込んでた。でもそうでねぇんだぃな。そういえば、同期の宇高の理系も、結構な比率で、大学での勉強分野とは異なる職業分野に進んでいたな、と思い至った。やはり、実際に進学した先で勉強してみて、あるいは実際に望んだ職に一度なってみねぇと、手前の天職ってなぁわからなぇんだな、とつくづく思った。多分、医学部志望も含めて、ここにいる後輩たちのほとんどがそうなんだんべぇってことも、なんとなく想像できた。
俺の回答は、まとめると、無責任かも知んねぇが、「案ずるより産むがやすしだぜ」ってことだった。やってみるっきゃねぇ。とにかく手前が宇高在学時に決めた道を踏み出してみな、と。皆、若ぇし、何よりも宇高生はポテンシャルが非常に高くて、しかも「全教科教育」で培われた幅広い教養の土壌という、何事にでも応用を可能にしてくれる他に代えがてぇ財宝を隠し持ってるんだ。そんな皆なら、選んだ道でまずは徹底的にやってみて、それが「違う」と思い、そしてこの道とは別のことを試行的に並行してやって見て、そっちは、寝食忘れてやっちまうことに気づいたら、そこに新たな、金銀の星が煌めく人生展開の契機を見出せるぜ。俺だって、経済学には早々に愛想が尽きたが、手に職つけるために独学でやってた独語にはまり込み、結果的に現在の職業を選ぶことになったんだ。
そんなことを、熱意を込めて、そして、後輩たちと高久先生の夕飯の権利保持がいよいよ危うくなる時刻まで話していたんだが、皆真剣な面持ちで聞き入っていた。
さて、「まっとこの先読みてぇけれど」の段が来たので、毎度のことだがこのあたりで:
高久先生に任命された首都圏ガイド君(文系)が、「17:18分の電車に乗れば17:58分に宿につくっす!」と宣言すると、感謝係(上記の質問者)が、要約すると、「あざっす。来年も訪問お許しください!」と律儀に挨拶。ああ、あたぼうよ。また来な。俺も明大側と相談しながらもっとためになるコンテンツを用意して待ってるぜ。こう返事しながら、万感の思いを胸に、猛烈ダッシュで御茶ノ水駅に疾走する高久先生と12人の楽しい仲間たちの背中を見送ったもんだぜ。

皆を迎えた翌日の3年生ゼミ(全員マスラオ)で、前日のことを話したら、とあるゼミ生曰く「へぇ、じゃ、昨日学食前で見た古風な学生服は宇高の生徒なんすね。なるほど、さすが先生の後輩。全員の目がガイド役のエッレェ綺麗なお姉さんの美しいお顔とスタイル抜群の御姿に釘付けっしたよ!」この第二グループに関する斥候報告には、苦笑するしかなかった。全く、男子校ってのは今も昔も変わんねぇな。
まあ、無理もねぇ。俺の目から見ても、あれぁ見目麗しかったぜ。ただよ、今んとこは宇高の勉学で「やるこたぁやれよ(英語の千田先生から、在学一年時にいただいたお言葉)」。
あまりにも昭和な考えかもしんねぇが、そっち方面の研究に関しては、お前らが高校での学業修めて手前が選んだ進路を実現した暁に本格化するってのが、最高の成果を得るための王道ってもんだぜ。当該研究テーマに限れば「大学者」である、この「極上の先輩」になるべく修行中の猫又男が断言するんだから間違ぇねぇさ。

石塚(鹿又)史樹 (平成5年卒)