会員投稿

会員投稿③ 師を思う(後編)

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昭和56年に「臨床腫瘍学」、昭和63年には「放射線腫瘍学」を著し、それこそ腫瘍学という言葉がなかった時代に新たな道を開拓された。そして平成3年に群馬大学放射線科第3代教授となられた。私が初めて新部先輩とあったのはちょうどそのころの「宇高・宇女高会」であった。なんとなく放射線に興味があった私は平成7年に新部先輩のもとで放射線腫瘍医を目指すこととした。教授時代は先に述べた国立栃木病院での体験をもとに 「信頼と責任」 を教室のモットーとされていた。大学時代ほとんど勉強していなかった私を夜遅くまで指導してくれたのを今でもよく覚えている。第11回日本放射線腫瘍学会を開催し、平成12年に定年退職され、後進を暖かく見守っていただいた。

平成10年 日本放射線腫瘍学会大会長 赤線:新部先輩・筆者
平成11年 教授回診での一コマ 赤線:新部先輩・山川通隆先輩・筆者

新部先輩といえば、欠かすことができないのが、野球である。滝の原時代も大学時代も野球部に所属していただけでなく、教授となっても群馬大学野球部長だけなく全日本大学軟式野球連盟副会長、関東地区同会長を務められた。須藤久男先輩は入局に迷った際に新部先輩に相談しに行ったところ巧みに勧誘され、放射線科に進んだと回想されている5)が、野球グラウンドでノックを浴び、野球理論と腫瘍理論に感銘を受けて放射線腫瘍医に進んだ先輩も数多い3)

私が最後に新部先輩に会ったのは令和元年の弟子一同集合の時であった。その際に弟子たちがスピーチをしたのだが、もっとも新部先輩が反応したのが栃木県立がんセンターの副病院長(ご子息は滝の原出身)が「宮原球場が無くなりました」と話されたシーンであった。

令和元年 弟子一同集合 赤線:新部先輩・筆者 

最後に、昭和33年の同窓会名簿では先輩のご尊父・兄上:光宏先輩(昭和19年卒)がされていた新部産婦人科と私の曾祖父(明治40年卒)・祖父(昭和9年卒)が、広告の最初のページに仲良く並んでいる。また、曾祖父が同窓会長を拝命していた際には叔父上の傳三郎先輩(明治42年卒)には大変助けられた、と祖父から聞かされています。また来世でも巡り会うような気もしますが、まだ私のほうは再度お会いするまでもう少し時間があるようです。新部先輩の教えをを守り、「信頼と責任」を心にもって、もう少しの時間全力で癌診療に頑張りたく思っているところです。

東京支部副支部長 黒﨑弘正(平成元年卒)

昭和33年(創立80周年記念) 同窓会名簿 より
昭和39年東京五輪直前 父(昭和36年卒)の五輪選手を祝して、叔父上の新部傳三郎先輩より筆者の曾祖父へ頂いた手紙

★前編の国立栃木病院のエピソードは、新部先輩が滝の原3年3組であった時の副担任:小嶋千里先生(在職:昭和25~29年)のことである、と新部先輩と同級の手塚熙先輩より情報を頂いた。ここに感謝を申し上げる。

★タイトルは 宇高同窓会誌第17号 「國を思う」 および 「父を思う」より、宇高同窓会誌第66号 「曽祖父と友を思う」とともにインスパイアを受けた。

参考文献

1)https://www.jastro.or.jp/medicalpersonnel/aboutdoctor/cat/
2)宇高100年史 p603
3)新部英男 がんと共に歩んでー出会いー
4)群馬大学刀城クラブ会報第258号 追悼 故 新部英男先生を偲ぶ
5)群馬大学大学院医学系研究科 腫瘍放射線学講座 同門会誌 平成31年4月